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気分の下落と回復

今日も、そんなに書きたいことがある日ではない。ただ、気分は下落している。イベントから帰宅して、気分を安定させる薬を飲んで、やっと一息ついたところである。

気分の下落についてはいろんなかたちでこれまで何度も何度も何度も書いてきた(例えば別のブログサービス、旧Twitterの投稿など)。またそのたびに自己憐憫(じこれんびん)を繰り返してきた。しかし、それを書き留めてみたり、自己憐憫を反復することで私は何を得たかと言えば、何も得ていない。少なくとも労力に見合うだけのものは得ていないし、残ってもいない。なぜ私がこんなに嫌な気分でいなければならないのかとずっと思っている。もちろん、ときには「私より酷い気分、酷い痛みや苦しみから逃れられない人たちもいるのだ……私はまだマシな方だ……」と或る意味自分とはまったく関係のない人たちのことを想像して現実逃避をはかろうとすることもある。だが、それを想像してみたところで、ますます肩身の狭い思いをするばかりで自分で自分自身に嫌な気分を追加しているようなものだ。何もいいことはない。

最近、ごくわずかな時間ではあるが、また瞑想をしてみるようにしている。また、瞑想込みのメンタルエクササイズとして行動主義心理学のセラピー(ACT)の本も読んだ。瞑想はずいぶん前から注目し、できるときはなるべく定期的に、あるいは決まった場所でおこなうようにしている。

具体的には、比較的静かで外部からの刺激が少ない環境で目を閉じて、勝手に浮かんでくる観念やイメージに注意が向いてしまったり、それらの想念と「一体化」してしまっていることに気がつくたびに、自分自身のゆっくりとした呼吸の今現在に注意を向け直すというものだ。注意や、自分自身が想念に持っていかれてしまうのは当然のことであり、そうなってしまうことはまったく問題がない(例えば、それを問題視する、というのもまたひとつの想念として浮かんでくる)。ただ、気がつくタイミングもいずれは訪れるので、そのときに自分の今の呼吸を感じることに再フォーカスし、さっきまで気を取られていた、あるいは「一体化」して自分自身と同一だと思いこんでしまっていた想念と距離をおく。あるいはそのような想念に居場所を与えて、抑え込んだりせずに自由に動き回らせておくが、それはそれとしてやり過ごしながら、私自身は呼吸に向かっていく。

例えば、今日のように鼻水が多かったり、寒かったり、暗い夜道を歩き回って心細くなってしまい、自分の寂しい過去やかなわない願望、人間関係の失敗は自分の意気地の無さが思い出されて気分が下落しているときは、つらい。つらいけれども、このつらさはいずれ立ち去る。なぜならば、そのつらさは私自身ではないからである。それは頭ではわかっている。それでもつらい。一方、今気分が下落しているからといって、過去の失敗した記憶、尻込みした記憶や、将来の不安、寂しさをそこにトッピングする必要はないし、下落する気分もトッピングされる様々なエピソードも今現在の私自身ではないのだ。今現在の私自身は暖かい部屋でこうしてブログ記事を書いていて、鼻水も寒さも夜道も無い。この直前は電車で帰路についていて、鼻水や喧騒や街の暗さが気になっていたけれども、それらが見えていたときでも、それらは私が感じていることであって、私自身ではないのだ、ないのだ、と思いながらつらい気分を抑え込もうとはしないけれども、どうにか一定以上に広がらないようにしながら、自宅の最寄り駅に到着するのを待っていた。

(1,454字、2024.03.03)

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