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構造に当てはめる

ヒトが区別することやできることと機械が識別することは異なる。例えばスマホやパソコンのモニター上に「3」と表示されているのを見れば、教育を受けた大人であればその意味を理解できるだろう。しかし、それが果たして数値の「3」なのか文字の「3」なのか、あるいは「3」の画像なのかはわからない。モニターに表示される光の配置は同じだから肉眼では区別がつかないが、コンピュータの内部処理としては数値と文字と画像ではまったく意味が異なる。コンピュータにおける「意味」とはそれに割り当てられた固有の番号であるから、数値と文字と画像ではまったく番号も異なるということだ。これはファイル名の後に付いているアルファベット3文字の拡張子と似ている。

ヒトという視点にとっては同じ情報でも機械にとっては異なる情報であるという事例を出したが、この異なりを「型 type」の異なりと呼ぶことにしてみよう。ヒトには同じ情報として解釈できる「3」でも機械からみれば数値という型(数値型)であることもあれば、文字という型(文字型または文字の集まりである文字列型)であることもある。また、画像だとしても.jpgという拡張子で表されるフォーマットの場合もあれば、.pngという拡張子で表される場合もある。ここではこのような「フォーマット」も広く「型」の一種として捉えたい。

ヒト自身も機械ほど厳密ではないし、非常に柔軟かつ曖昧ではあるものの、型を使って世界を認識している。今この記事がそうであるように、我々は世界を記述するときに一定の言語で、一定の文型で記号を書き並べている。なぜならば、それは一定の型に収めないと伝達という目標を達成できないからである。ではその目標達成のために何をするかと言えば、自分の経験や認識を型に「当てはめ」て記号列に変換しているのだ。

例えば唄を聞いたという体験を思い出したとする。最初はそれはただ心地よかった(心地悪かった)という輪郭の無い感想かもしれない。しかし、それを記号列にして他人に伝えようとすれば、型に当てはめざるを得ない。いろいろな型があるので、いろいろな当てはめ方がある。5W1Hのような「いつ」「どこ」「だれ」「なに」といったタグ付けあるいはノーテーションと呼ばれる作業も型にはめる(これを「型キャスト」と呼ぶこともある)作業の一つである。最初は単なる「唄い」にであった体験が、「9月28日、小学生たちがもしもし亀よを歌うのを聞いて心が和んだ」といった形で文型やてにをはを使って分節化 segmentation されるのである。このような型への当てはめを「構造化」と呼んでもいいだろう。

さて、ここまでの解釈はおおよそ常識的なものかと思うが、問題は日常的な経験を我々が解釈して一定の「型」に収めるという、より上級の「型」、言い換えればより上級の構造にある。上記のような記述は我々は与えられた材料を型に流し込んでいるようなイメージであるが、そもそも素材が何であるかわからないのだとしたら、我々はそれをどの鋳型に流し込むべきなのかもわからないはずであるし、素材が何であるかあらかじめわかっているならそもそも流し込む必要はなく、また現存する様々な人工的な型を作る必要も無かったはずである。それらをどう説明したらいいのか、というのがもっと高次な問題として横たわっている。

(1,377字、2023.09.28)

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