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待降節

 毎年12月に泣いている。帰国後は少なくとも、またはとくに京都に来てからは毎年景色が霞む。きっと今年もぼくは泣くだろう。泣く理由は明確で「クリスマス」だからだ。

 キリスト教徒であるぼくにとって、また誕生日がクリスマスに近接しているぼくにとって、待降節から降誕節にいたる日々は祝祭そのものである。子どもの頃に自分の背丈よりも高いツリーを飾った記憶はオーナメントの滑らかな輝きとともに、夜に煌く七色の電飾の灯りのように、いまだ色褪せることがない。

 信者でも何でも多くの人々がクリスマス・ソングをフンフフンと口ずさむ。京都の三条・四条、大阪の目抜き通りから汚い路地裏まで、世界が神をたたえる空気で満ちている。いまのぼくにとってクリスマスは、ユダヤ教における大贖罪日、灰羽連盟における過ぎ越しの祭だ。ただただ世界が喜びと期待に震えている感じがある。

 復活も予見的であり、より未来的なものであるが、クリスマスの潜やかな雰囲気には勝てない。商業主義の喧騒のどこに密やかさがあるのだ、と思うかもしれない。しかし、ひとり空を見上げるとき、深夜、誰もが寝静まる時間に起きていて、孤独にものを思うとき、クリスマスはその意味を深めてくる。

 救世主が小さな赤子として世に生まれる夜。彼が世界を救うにいたるのは、さらに三十余年のちである。ただ何かが決定的に変わった瞬間である。闇夜に希望の火がひっそりと灯された。

 おそらく南半球に住んでいたならば、冬の潜やかさはなく、もっと濃厚な祝祭の色のある日となったのかもしれない。

 ぼくの日記によれば、一昨年の今頃は迫る修論提出に向けて、一章追加するために読書をしていたらしい。去年の今頃は、仕事にも少しずつ慣れてきて色々と落ち着いてきたと書いている。またアーギュメンツ#3寄稿のために論文をとりに書架へ向かったと書いている。今年は、無事に発表を終えて、ドイツより帰国した同僚と映画を見たのちにこれを書いている。

 来週には誕生日、その向こうにはクリスマス、そして、年が明けて、年号が変わる。来年の今頃にはどこで何をしているだろうか。来年は、少し大きなツリーを買って飾り付けをしようか。

 世界の夜明けへの希望が一年ごとにやってくる。その力は予想以上に強いものなのかもしれない。あなたも良い待降節と降誕日、年末年始を過ごされますように。少なくとも、ここに一人、読者のあなたの幸いを祈る者が一人います。何かひとつでも良いことがありますように。

 どうか、クリスマスの神から、あなたに祝福がありますように。

Adeste, fideles,
Laeti triumphantes,
Venite, venite in Bethlehem!
Natum videte,
Regem angelorum
Venite, adoremus!
Venite, adoremus!
Venite, adoramus Dominum!
Venite, adoramus Dominum!

追記:誕生日プレゼントを送って下さった皆様、有難うございます。大変励みになっております。他の人がやらない「文学研究」をやる身としては、皆さまのご厚意に甘えた分、人類の幅を広げるために、何かを残していく所存です。感謝。

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