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何とかリテラシー

 仕事の一つに「買い物」がある。グループホームの日用品を職場付近で買うのだ。ほとんどが夕食と翌日の弁当のための食品買い出しであるが、たまに洗濯用ソープなどもリストに入る。

 先日たまたま洗剤を買った。包装には「※これは飲み物ではありません!」と他の文字の数倍はでかいフォントで書かれていた。思わず笑ってしまった。さすがに飲むヤツはおらへんやろ!

 同時に思い出した。でも小学校低学年の頃、あまりに白くツヤツヤした石鹸をみて、これは食べられるんじゃないかと思って口に入れたことがある。無論、すぐにうぇっ…ぺっぺと吐きだした。いや、まさか。

 たしかに子供のためかもしれない。または訴訟対策であることも事実だろう。とはいえ、一定数、これを飲んでしまう人もいるのではないか、そう思った。

 「識字率」はリテラシーと訳されることになっている。しかし、より内実に即していえば、おそらく「知見」、もっと言うと「~に関する常識と知見」が精確かもしれない。

 識字率とは、字を読める人間の割合である。記号と音の照合ができる人間がどれくらい存在するか。「あ」と書いてあれば、その音を発音できる、という意味だ。そうだとしたら、日本人のほぼ9割くらいには識字率を確認できそうだ。

 しかし「あ・い」と二文字2音節になった途端、その連音は、複数の意味をもつ。愛、哀、藍、I、eye…アーイアイ。

 文字を読めること、文章を読めること、一冊読めること、一冊を読解精読できること、複数の本を読み比べることには、それぞれ大きな開きがある。これは「書き」にも「語り」にも同じことが言える。五十音と名前は書けても、文章を書けない人は多い。ましてや一冊書く人間は言わずもがな。自己紹介と注文はできても、15分、30分、90分とテーマと構成をもって話し続けることができる人は少ないだろう。

 つまり、リテラシーに関する知見と常識について、裏返せば「理解を理解すること」について考えている。無論、答えなどない。月明かりに照らされた砂漠のように茫漠としている。行ったことはないけれど。

 ふと、結局リテラシーとは造語できるような段階にならなければ生まれないのではないか、と思った。つまり、リテラシーとは「~に関する知見と常識」という、有って無いようなもの、融通無碍なものではないのか。リテラシーとは、それを語る人間の「常識」程度に個別具体的な事柄の並び方であって、普遍的に語ることはできないのではないか。

 もちろん「常識」はたしかに存在する。たとえば、キリスト教徒の家に生まれ、クリスチャンとして養育されたのに「イエス」の名を知らないことは、普通にあり得ない。常識がない以前の何かの問題を考えざるを得ない。常識的知見は存在するが、それは大上段にかまえて「何とかリテラシー」とまで言うものはないかもしれない。リテラシーとは、あくまで固有の語りの別名である。

 ところで自慢でも何でもなく、幾つかの小さなコミュニティで、ぼくの言い回しがバズり、いつのまにか定着したことがある。そして、それは言い出したぼく以外はみな忘れている。

 今朝たまたまSNS上で踏んだリンク先で見知らぬ誰かが、ぼくの言い回しを使っていた。その言い回しは、ぼくがネット文化から仕入れたものであってオリジナルではない。彼らにはネットリテラシーがなかった、と言い換えても良いだろう。言語の感染経路を考えるには面白い事例だと思ったので興味深く少し読んで、すぐに飽きて、そっ閉じした。

 つまり、ぼくにとって、今朝みたそのコミュニティは退屈なのだ。彼らが語ることについて、とくに知見と常識は見当たらないと思う。一方で、個別具体的な、固有な意味での語りとしてのリテラシーならば溢れている。

 情報リテラシー、宗教リテラシー、何とかリテラシー。そのままアレルギーと互換できそうな語感である。アレルギーが固有の身体性だからか。単なるカタカナ四文字に長音という字面が似ているだけでもある。見間違い、誤読と差配もリテラシーの幅なのだろう。

 無駄に書き過ぎたので、ここでやめたい。

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