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遅れた解題とあとがき

 約一年前、「トナリビトの怪」という文章を、批評誌『アーギュメンツ♯3』(渋家、2018)に寄せた。論文、論考ではない。いま思えば、信仰告白であり宗教文学だった。

 2014年の春、生涯を捧げようと願っていた「教会」から去り、迷いの中で沖縄に一か月ほど逗留した。上空200m、モーターパラグライダーで上昇し、風まかせに空を漂う初めての感覚を今でも覚えている。地上からは見えない久米島の全景が、ぼくの身体感覚と接続した瞬間だった。それは予兆であり、その後についての象徴的体験だった。

 2017年の夏、期せずして20年ぶりに訪れた渡嘉敷島からの帰りの機上、作家・池澤夏樹「太平洋に属する自分」(『沖縄への短い帰還』ボーダーインク、2016所収)を読み、天啓に打たれたごとく、ぼくが探るべき主題が明らかとなった。

 太平洋弧のキリスト教。ぼくの生涯に現れた沖縄、キリスト教、日本文化というエポックから考えれば、それは必然だったのだろう。数か月後、批評家・黒嵜想より声をかけられて「トナリビトの怪」を書き上げることで「批評」の世界を垣間見ることになった。

 「キリスト教宣教と遅れた近代化」を被る太平洋孤において、人々は「西洋近代的自我」として主体化せざるを得ない。その際「弱い主体」とも言える非近代的要素が切り捨てられる。拙稿「トナリビトの怪」の目的は、その「弱い主体」救済の道筋を模索することだった。

 ぼくは、キリスト教を日本語の「怪談」という想像力で以て読み替えることで、主体と弱い主体の両立する地点、「死者と生者の交換可能性」の地平を見出し、その地平において「隣人」を再設定しようと試みた。

 この構想に基づいて、まず、ぼくはハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教のあり得た可能性を参照した。それはハワイの伝統的霊能職カフナ、柳田国男の世界民俗学、そして沖縄の怪談ジーマーを尋ねる小路であった。

 次に、ぼくは「怪談の形式」と「啓示の形式」の比較を行った。前者は「死者と生者の交換可能性を担保する場所の多声」であり、後者は「超越・啓示・解釈の図式で社会的に主体化させる単声」である。しかし、イザヤ書1章の解釈不可能性から、聖書自体が後者「啓示の形式」を棄却することを示した。

 そして、啓示と怪談の関係とパラレルのようにも見える「憑依とつきもの」にこそ、啓示を怪談に、すなわち「場の記憶」として読み換える日本語の想像力の可能性があると示した。具体例として、この観点からダニエル書を扱った。ダニエル書のもつ文献学的謎が、敵から聞こえる神の赦しの声の鍵だった。神の声は、ありうべからざる不思議として、「憑依とつきもの」として現れて、交換可能の地平を起動するのだ。

 「トナリビトの怪」の最後は、日本において伝来当初からキリスト教が「怪談」として理解されてきたことを指摘した。加えて、創世記11章「バベルの塔」解釈から、神が弱く抑圧された側に立ち上がり、そのときにこそ、弱い主体と主体は対立することなく、その隔ての壁は消え去って「隣人」となる、とした。これが「トナリビトの怪」の要約である。

 キリスト教とは何か。それは髑髏山で殺された死刑囚の声である。その声が隣人と土地の固有性に木霊している。この光景が20年の敬虔と研究と挫折のあとに、ぼくに現れた「キリスト教」だった。

 あれから一年を経て、自分が何を論じ、何を眺望していたのか、より明確になった。太平洋孤に佇む言葉で、あり得べからざる形で、神の指の隙間から溢れたものを、自分でさえ忘れてしまった記憶を掬いあげる、伝統的かつ大胆な「キリスト教」というプログラムの書き換え――あの地平に踏み出したこの一年の道行を言語化するときが来たのかもしれない。そう思いながら、G20で規制された大阪へと向かう電車に乗って、自論を要約した。梅雨の無数の踊り子らが、くるくると車窓を流れている。

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