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男らしさ、女らしさ — とその次

ヒトの体内には、競争をあおるホルモン(臓器にはたらきかけて体内機能を調節する物質)とやらが流れているらしい。その名はテストステロン。こいつが気分や行動、とりわけ攻撃性や競争心などと大きく関与している。男性ホルモンと呼ばれているもののひとつだが、男女を問わず分泌されている。ただし、男性のほうが濃度も分泌量も桁違いに多いという。

「戦うか逃げるか」の反応をつかさどるアドレナリン、あるいは意欲や快感をつかさどるドーパミンなどの脳内伝達物質の分泌をあおることなんかもやっているらしい。こうしたものが男としての肉体を作り上げ、さらには私自身のへなちょこな人生史を作り上げてきた。

男のアイデンティティーと競争心は切り離せない


「男らしさ」「女らしさ」でお説教を垂れることが流行らない時代になってしまった。それどころか、もはやアンタッチャブルなテーマにさえなりつつあるこの時代。現在は女性の車掌どころか女性の運転手すら珍しい存在ではなくなりつつある。もとはといえば、鉄道系の職務というのは「男の子がなりたい職業」ランキングの上位に入っていたはずだったのに。

とはいえ、モチベーションのほうは様変わりしていると思う。

「男のロマン」のひとかけらとして男性だけが享受できていたはずのテリトリーに身を置いてみたいと思った少数派の女性が、そういう場所に思い切って身を投じた。昭和や平成初期ではそのことがニュースとして、しばしばマスコミのネタになっていたぐらいだ。それがまったく珍しいものではなくなったのは、むしろ〝経済〟という魔物とつながっているように見える。

昭和の時代、専業主婦というのはまったく珍しくなかった。とりわけ亭主が望まないからという理由で、嫁が「カゴの中の鳥」にされることを余儀なくされる場合すら少なくなかったのだが。

昭和歌謡はもともと、そんな時代の娯楽だった


芸のためなら女房も泣かす
それがどうした 文句があるか

     〜

そばに私がついてなければ
なにも出来ないこの人やから
泣きはしません つらくとも

「浪速恋しぐれ」(1983年の演歌:岡千秋・都はるみ)

男が天下を獲りにいく。そして女は頑張る男を応援する。
それが昭和でいちばんメジャーな様式で、歌謡曲もその手の設定のもとで描かれた歌詞が多かった。

いまでは女性が獲物を獲りにいくことも多いが、そういう女性を応援するだけで何もしない男はいまでも「ヒモ」と呼ばれる。経済手段として女性でなく親を選んだ場合は「子供部屋おじさん」である。「ニート」という呼び名もあるか。

果たしてどれが一番かっこいいのか。

どれもかっこいいわけないじゃん(苦笑)。
ディスってるわけでなく、私も完全になにもしなくなったら、まさにヒモ寸前の人だったりしますからして(号泣)。

どれほど女性の社会進出がめざましくなったとしても、やはりテストステロンに突き上げられながらも高みを目指す男はかっこいい(男目線から見てもやはりそうだとしか言いようがない)。それを応援するつつましやかな女性というものは可憐だ(女性目線から見てもそう思いません?)。言論界隈では、女性に〝可憐〟という言葉をかぶせることすらデンジャラスな時代になってしまったけれど、女性アイドルは時代を問わず現在だってかわいいし、仮にその存在さえも社会的に抹消してしまったとしたら、これほど殺伐とした文化なんて有ったものではない。

誤解を恐れずにいえば昭和ってのは、よく言えば「価値観の共有がうまくいっていた時代」、悪くいえば「ジェンダーで自由をうばって無理やり予定調和に押し込めていた時代」ということになるのか? いまはジェンダーフリーにこそなりつつあるものの、不条理をともなう予定調和的なものが極端に毛嫌いされている。

冒頭の「なにわ恋しぐれ」の、どうしようもない男。たしかにゲス男だ。ただ、歌謡曲で紡ぎ出されているストーリーは基本的にはフィクションだ(もちろん私小説的な創り手さんもいるかもしれないけれど)。
あるドラマを見たからといって、それを実生活の中に持ち込むとストーカーだろ?ってのと同じだ。昭和時代のあれこれはたしかにゲスだったけれど、フィクションと実生活の分別ぐらいはあった(少なくとも現代よりは)。

いまはドラマで何かおかしな場面が出てくると「模倣する人が出てくるからやめろ、謝罪しろ」といった騒ぎが簡単に起こってしまう時代。昭和よりはるかに規範意識が厳しくなっているわりには、抑圧されているからなのか、フィクションと実生活の分別がついていません系の犯罪ってのが実に増えている。

プロ野球で盛り上がることだって、立派に推し活


中性のおじさんだからして、若い人たちの男性的なものにだって憧れる。気力や体力が充実している人たちに、バーチャルでも妄想でもなんでも構わないから乗り移ってみたい、とでも言いましょうか。

こう書くと「変なおじさん」って思われそうなんだけど、それってごく普通のことなのではないかい?って思う。

たとえば、野球をたしなむ人がプロ野球のファンをやっているというよりは、野球選手にあこがれている人がプロ野球のファンをやっている。そこには女性もいるし男性もいる。昭和からしっかり生き残っている、古き良き楽しみごとである。

プロ野球の面白さは何か。仲間同士が集まってファンとして騒ぐことが楽しいってのもある。かつて阪神が弱小球団だったころ、阪神ファンというのはどこか自虐的に「負けがこんでいること」を仲間内で楽しんでいたところがあった。

それでも熱量でいえば、昭和のプロ野球ファンのほうが数段熱量があった。さすがに「巨人が負けると機嫌が悪い」ってところまで行くとやりすぎだけどね。あ、
これは私の父親のことです w 。

推し活のいいところは何か。男女なんてこれっぽちも関係なく楽しめるところだ。

まだまだ捨てたものではない


果たして何が書きたかったのだろう。よくわからなくなってきてしまった。

社会は男としての自尊心を挫いておきながら、それでも声高に「経済だ」「成長だ」と叫ぶ。何年か前に辻仁成さんの「中性のおじさん」発言が注目されたりもしたが、長い目でみれば私自身もそろそろ中性のおじさんをめざそうかな、と思ったりもしている。

こんな時代、こんな境遇。

だけど、まだ結構いろんな楽しみごとがある。たとえば、大谷選手の活躍で盛り上がることもまた「お祭り」みたいなもの。何より、あの信じられないポテンシャルに希望を託して、かつての日本人がコンプクレックスを余儀なくされた欧米の方々に肩を並べて競い合っている。

みんな大谷選手に憑依して、ガンガンとホームランをかっ飛ばす妄想にふけることを楽しんでいるのだ。いいじゃないか。ただ、昭和の阪神みたく「負けがこんでばかりの人に感情移入する」ことがあまり流行らなくなったのは残念かも。

いまやエゴの時代。自分が主役になりたい、という人の数が昭和より格段に増えた(というよりはITもろもろのおかげか、昭和よりもずっと主役になれるチャンスは増えた)。でも、歳を重ねすぎた私はもう推し活だけに回ってもいい頃合いだ。戦うよりは、仲良く仕事がしたい。それでも、なあなあではなくやはりいい仕事を成し遂げたい。欲張りだなあ。

いろんなジャンルに、いろんな推しの人がいる。小心者の私はまだ、ひとりで心の中で推しているという次元にとどまっているけれど、noteというプラットフォームはそういう楽しみ方の幅を広げてくれるような場所だなと感じている。

なんか、本当にまとまりのない文章ですみません。それでは、また。

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