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割れたレンズに消された「養蚕」への夢

宮中で今も続けられる蚕の飼育

大学に進学するとき、長期的な人生を考えて、例えば将来は宇宙開発にかかわりたいので、宇宙物理が強い大学を選ぶという学生がいる。あるいはまた、野球などあるスポーツが好きで、そのスポーツの強豪校である大学を目指す学生もいる。その点私は、理学部、農学部、工学部といった漠然とした将来への目標はあるのだが、たかだか高校生という年齢の段階で、理学部の中で動物学、宇宙物理、生化学といった具体的な専攻を決めるほどには明確な将来のイメージはなかった。ところがあるときテレビで、宮内庁では皇室の伝統文化の継承ということなのだろうが、皇后陛下が皇居で蚕(かいこ)を飼っているということを知った。宮中と養蚕(ようざん)の歴史は古く、奈良時代には、正月に天皇陛下が田を耕して豊穣を祈り、皇后が蚕室を払って蚕の神を祀る儀式が行われていたという。

私は特別に皇室の行事に関心を持っていたわけではないが、このニュースに登場していた「養蚕」という現代の社会では死語に近い言葉の響きに、なぜか私の隠されていた情熱があぶりだされたような気がして、突然大学行って蚕の研究をしてみたいという、脈絡のない思い付きに囚われるようになった。調べてみると、偶然京都に養蚕を専攻する学部か学科のある大学があった。私はそのユニークさに酔って、誰にも相談せずに、一人でこの大学を受験する気になっていた。その気になってからこの大学のことを調べてみると、この大学の学術的なレベルも高かった。私としては「養蚕」という時代遅れの研究をしている大学なので、どこか牧歌的な緩さがあって、入学試験もそれほど難しいはずはないと楽観していたが、決して油断できない学校だと分かった。

残雪の朝の不吉な予感

受験勉強に関しては、それほど自信はなかったが、「養蚕」というユニークな分野を目指す心構えだけは十分で、私にとってはモチベーションに恵まれた勉学のチャンスとなった。私が養蚕と出合って約一年、やがて入学試験の日がやってきた。そのころ私は京都に住んでいて、京都市の市バスで受験会場であるその大学へと向かうことにした。その受験の日は、まだバスの通る道路には二、三日前の雪が残っている寒い日で、バスの運行が全体的に停滞気味だった。そのうえ、この学校の受験日が重なっているのでこのルートを走るバス内はぎゅうぎゅう詰めの状態だった。朝から何となく不吉な予感を感じる日だったが、その予感はピタリと的中した。
満員だったバスの私のすぐ前にはたくさんの荷物を持ったおばあさんが立ちふさがり、その人もまた私が降りようとしている大学前で降りようとしているようだ。目的のバス停に着いたが、おばあさんの荷物が多すぎて、だれの目にもそのままではとても降りられそうにはない。バスの運転手は、運転手の足元に大きな荷物を残して一旦バスから降りて、停留場に荷物を置いてから、もう一度バスに乗り込んで、運転手の傍に残っていた荷物を持って降りてはどうかと提案するのだが、このおばあさんにとっては自分の荷物の安全のことしか頭にない。周りの人間が助けようにも、おばあさんは自分の足場も確保しないで、両手いっぱいに荷物をもって、周りの人に体の重量を押し付けて、ただひたすらバスの出口に突進したのだ。

「養蚕」への道に立ちふさがるおばあさんと結局おばあさんより前にいた人は、すべてバスの出口から、チューブから押し出されたマヨネーズのように無理やりバスからひねり出され、私を含む受験に来た学生たちは団子になってバス停の前によろよろ倒れてしまった。学生は若くて身軽な人が多いので、うまく体をかわして倒れたので、洋服の汚れ以外は大した被害はなかったが、一番の被害を受けたのが私だった。私が倒れるとき、倒れてきたおばあさんがとっさに私の肩をつかもうとして、つかみ損ね、空の手で私の眼鏡をつかんだまま、バスの出口から飛び出した。

「養蚕」の道に立ちふさがるおばあさんの荷物

予想するまでもなく、眼鏡は大きく破損し、本来はこの場でこの災難の結末をつけなくてはならないのだが、試験の時間は迫っている。仕方なく私はカバンを手に持って受験会場へと急いだ。眼鏡を壊されて状態で、受験会場には入れたものの、会場全体を見回して絶望的な気分になった。その会場は一番前の黒板から、私の受験する最後尾の席まで、目測では70メートルもあるほど恐ろしく遠かった。
眼鏡は壊れているので、一方のレンズは無くなっていて、片側のレンズの二分の一程度が辛うじて割れずに透明性を保っている。そこで、レンズの大き目の欠片を手に持ってレンズのわずかな透明部分を通して黒板を見ると、びっしりと入学試験の要綱や、個別の設問に関する注意書など、見ないと大変なことになりそうなことが緻密に書かれている。さらには、出題と関連している記述もあって、黒板が読めなければほとんど解答することは不可能だった。しかし、残されたレンズの欠片では、そのほとんどを読むことができない。焦った私は恥も外聞もなく、そのまま会場の一番前に走り出て、必死で監督の責任者らしい人に事情を説明して、前の方で予備の椅子で受験させてもらえるように頼んだが、殺意をもよおすほど冷血な態度で、眼鏡が見えないなら、受験を棄権するほかないと何の感情もなく私に答えたのだった。結局私は、レンズの欠片を手に受験することになったが、受験どころではなかったのは言うまでもない。

この受験は私にとって、全く何の意味もなさなかったが、私の席の近くに座っていた女子学生が、私がレンズの欠片をもって黒板を見続けていることにいたく興味をもって、試験後に私に話しかけてくれた。それがきっかけで、私と彼女はしばらくの間付き合いがあったが、「養蚕」の目標を失った私が女性と付き合う精神的な余裕もなく、付き合いは自然に途絶えた。この受験で得たものといえば、せいぜいそれくらいの思い出だけだった。



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