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音楽マネージャーとライター、事業家などに夢中になっているうちに、いつの間にかかなりの月…

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音楽マネージャーとライター、事業家などに夢中になっているうちに、いつの間にかかなりの月日が経ちました。何か新しい楽しみを発見している最中です。

最近の記事

小学生のBeekeeper

私はミツバチを担当する飼育委員 私は小学4年で転校した。つまりわが家は、都心からまだ自然が残る郊外の住宅地に引っ越した。転校当時は、私の生活スタイルがその地域の子供たちと違っているからなのか、今風に言えば彼らから仲間外れにされていた。それが担任の先生にも分かっていたからなのか、先生は私に飼育委員になることを勧めた。私は仲間外れにされて辛いと思ったこともないのだが、それよりも動物を飼育することの方が面白そうなので、先生の勧めに従って飼育委員になった。飼育委員とは、委員という称

    • 「ミョウガ」にまつわるのどかな思い出

      終戦近くに疎開した岡山の田舎が私の出身地 わが家は戦時中、大阪空襲が激しくなって、食べ物にも事欠くようになったので、家族で大阪を離れて岡山の田舎に疎開した。私の家族は私を除いた全員が大阪出身で、私一人が戦後も疎開先にとどまっていた岡山で生まれたので、正確に言うと私は岡山県出身ということになる。 親しい人と話している場合でも、漠然とわが家は大阪出身者の家族と思われているので、あえて私一人が岡山県生まれということになると、何かといろいろ説明しなければならないことが多くなるので、

      • 割れたレンズに消された「養蚕」への夢

        宮中で今も続けられる蚕の飼育 大学に進学するとき、長期的な人生を考えて、例えば将来は宇宙開発にかかわりたいので、宇宙物理が強い大学を選ぶという学生がいる。あるいはまた、野球などあるスポーツが好きで、そのスポーツの強豪校である大学を目指す学生もいる。その点私は、理学部、農学部、工学部といった漠然とした将来への目標はあるのだが、たかだか高校生という年齢の段階で、理学部の中で動物学、宇宙物理、生化学といった具体的な専攻を決めるほどには明確な将来のイメージはなかった。ところがあると

        • 信濃路雪深し

          大学受験という青春の風物詩 現代はウェブの時代なので、いまでもそんな習慣が残っているのかどうか知らないが、昔は遠方の大学を受験すると合否の発表を見に行くのが大変だった。そこで、受験日にはおそらく学生のアルバイトだと思うのだが、試験の合否を電報で知らせてくれるサービスがあった。私の親しくしていた友人が、信濃の名門大学・信州大学を受験した。私はこの大学を受験しなかったが、友人も私も大阪に住んでいたので受験するのが大変だったと思う。そこでこの合否を電報で知らせてくれるサービスを申

        小学生のBeekeeper

          三度水に溺れた幼いころ

          幼い子供にとって抗いがたい水の魅力 私は幼少から小学校時代の間に三度水に溺れたことがあるが、生命の危機に至る最終段階のことはほとんど覚えていない。というのも、三度ともに私が気を失ってから助けられたからだ。一度目は、魚の釣り餌になるゴカイを獲っている老人が操る川船が、私が遊んでいた運河の岸に近づいた時だった。川船の舳先が運河の岸ぎりぎりに近づいた時、私は何も考えず川船に乗り移ろうとした。すると、私が川船に乗り移ろうとした時に、私の体重が作用して川船が岸から離れ始め、私は文字通

          三度水に溺れた幼いころ

          荒川遊園地

          周辺の都民に馴染んでいた都電荒川線 少し前、といっても10年近く前のことだが、私は東京、荒川区の町屋というところに住んでいた。そのあと事情あって京都に移ったので、町の変貌が激しい東京のこともあって、今この町がどうなっているのかよく分からない。メトロの千代田線にあった町屋駅は東京駅へも15分程度と、都心へのアクセスもよく、また下町の風情を深く残していた町だったので、便利で生活のしやすいところだった。特に何があるという町ではないのだが、私には印象的な思い出があった。町屋には都電

          荒川遊園地

          画鋲のチェンバロ

          かつてはコンサートでも珍しかったチェンバロの演奏 私が音楽の仕事をしていた若い頃、大都市はともかく、人口の少ない地域ではコンサートの設備環境も不十分なものだった。しかし、それだからこそ日頃あまり聞くことのできなかった多様な音楽に対する期待も大きく、音楽のプログラムへの要望もかなりレベルが高かった。当時、チェンバロが中心的な楽器であったり、編成の中でチェンバロが重要な役目を担うプログラムは少なかったが、たまにチェンバロが重要な役目を担うプログラムがリクエストされることがあった

          画鋲のチェンバロ

          人生の❝心の音❞

          ビルの七階から見る京の町屋 私は今、京都の下京のマンションに住んでいる。私は7階建ての中層のマンションの上の方に住んでいて、周囲は昔の町屋が取り囲んでいた。上からマンションの周りの町を眺めると、ほとんどすべてが瓦屋根で、一部に瓦屋根に換えてソーラーパネルが見える。上から見た町屋の形は、うなぎの寝床と呼ばれている通り、一方が長く伸びた長方形の形状だ。 上から京都の町屋が見えるので、友人たちもよく私の部屋に遊びに来る。友人たちはこうした町屋の様子が好ましいらしく、私もこんな場所

          人生の❝心の音❞

          遠き門

          東大といえば、加賀藩ゆかりの赤門 東京大の本郷キャンパスに、東京大学のシンボルとも言われる赤門がある。この赤門は、正しくは旧加賀屋敷御守殿門というもので、文政10年(1827)年に建立された。元加賀藩上屋敷の御住居表御門だったものであった。文政10年(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女、溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れをしたが、赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものであった。それが明治時代になって、元加賀藩上屋敷の辺りに東京大学が設立されることになり、赤

          万歳!たこ焼きの多様性

          昔は誰にでも開業できたたこ焼き屋 私は食べ物ナショナリストではないので、ラーメンや餃子、お好み焼きの本家、本場などについては、あまり意識しない。だから、どこであれ目の前にあるものを食べておいしければ私のひいきのメニューに入れておくだけのことだ。食べ物ナショナリストもいいのだけれど、あまり厳格な自分だけの味やメニューの基準を作ると、思いのままに味やレシピの多様性を味わうことができなくなる。 私はたこ焼きが好きなのだが、たこ焼きといってもかなり多様で、私の成長に合わせて、裏通り

          万歳!たこ焼きの多様性

          歌川広重 昌平坂聖堂神田川

          京都には歴史、文化という商品が無限に眠っている 京都は、東京や大阪から見るとずいぶん値打ちのある街だ。なぜかと言えば、世の中には京都にしかないものが多いので、どうしてもそれが必要な場合は京都で手に入れるしかない。例えば由緒ある神社仏閣も、国宝や重要文化財もその多くが京都にある。そもそもいくら京都にしかないといっても、まさか国宝級の神社仏閣を東京や大阪に運ぶこともできない。だから京都にしかないもので、現実的に京都で手に入れるしかないものとしては、芸術品や工芸品、伝統文化財とい

          歌川広重 昌平坂聖堂神田川

          懐いてくれていた?セキセイインコ

          事務所のセキセイインコ 私は一時、大阪でプランニング事務所を開いていたことがある。さして儲かっていたわけではないが、とにかく一年中忙しい事務所だったし、そこそこの数の社員もいた。そんなことで代表者だった私は、朝の十時頃から夕方の五時頃まではいわゆる営業で得意先などを回っていたが、同時にプランニングの実作業の責任者であったので、夕方頃からはデスクワークをしなくてはならなかった。 私の仕事のパターンは、夕方からプランニングの作業を開始して、夕食を挟んで作業がある程度形になるのは

          懐いてくれていた?セキセイインコ

          猫の太郎と次郎、そして私。

          猫付きの一家だった。 わが家にはいつも猫がいた。いわゆる圧倒的な猫好きの家族というのでもなく、どちらかというと、何となく捨て猫をかわいそうに思ってきたことの帰結だったような気がする。わが家は大家族で、両親、祖母、兄弟、私、兄の友人である居候たちを加えると一時は総勢十一人が一つ屋根の下で生活していた。猫を飼うといっても今日風の室内飼いというのではなく、オープン飼いだから、自由に出入りはできるが、かといって猫たちが生活の半ばを屋外で過ごすということではなかった。普通に夜になると

          猫の太郎と次郎、そして私。

          遥かなる鰹節

          母方の祖母は紀州の印南出身(いなみ)だった ずいぶん昔の話だが、私の祖母はとても利発な女性で、しかも当時の漁場出身では稀なことに女学校を出ていたので、大層望まれて大阪の船場の商家に嫁いだという。印南の家は私の祖母の実家であるので、昔は親戚の中でもそこそこ付き合いがあったが、次第に交流は少なくなっていった。私が小学生の頃は、夏の紀州の海が好きで、私がいつも行きたがったからか、二年に一度程度は印南を訪れていた記憶がある。祖母の実家には、私とほぼ同世代の男と女の子供がいて、なぜか

          遥かなる鰹節

          灼熱のうどん屋

          おそるべしモノの弾み! まったく私的なつまらない話なのだが、モノの弾みは恐ろしい。真夏の昼下がり、にわかに空腹に陥って近くに適当な店がないかと見回したが、辺りに店らしいものは見当たらない。少し遠くにうなぎ屋ののぼりが見えた。正確には今日は土用ではないが、ザクッとはほぼぴったりな季節なので、いつもならそれで決まりというところだった。 ところがその日は、その選択では何かしっくりこなくて、もっといいものがあるはずだとつまらないことを考えたのだろう。今日は猛烈に暑くて選択肢はいつも

          灼熱のうどん屋

          男の鑑と、男の鏡

          男にも鏡は必要 男も40歳くらいまでは、たまに鏡を見て櫛で頭を整えたり、頭にヘアートニックをつけて髪型を整えたりすることがあるが、そのうちにだんだん髪の量が少なくなり髪に対して、あるいは頭部に関して関与する余地が少なくなると、ついにはほとんど鏡を見なくなる。さらに歳を重ねていくと、髭をそるのもおっくうで、自分の顔を見る機会も少なくなって、あるいは自分の顔など見たくなくて、やがては自分がどんな顔であったかもほとんど意識しなくなる。鏡を見なくなると、私の目に入るものがいつも家族

          男の鑑と、男の鏡