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三度溺れた幼いころ

幼い子供にとって抗いがたい水の魅力

私は幼少から小学校時代の間に三度水に溺れたことがあるが、生命の危機に至る最終段階のことはほとんど覚えていない。というのも、三度ともに私が気を失ってから助けられたからだ。一度目は、魚の釣り餌になるゴカイを獲っている老人が操る川船が、私が遊んでいた運河の岸に近づいた時だった。川船の舳先が運河の岸ぎりぎりに近づいた時、私は何も考えず川船に乗り移ろうとした。すると、私が川船に乗り移ろうとした時に、私の体重が作用して川船が岸から離れ始め、私は文字通り股裂き状態になって川の中に落ちてしまった。それからは親の話に付け加えた私の想像にすぎないが、きっと川船の老人は私を助けようとしたのだが、川船はどんどん岸から離れて、老人も私を助けることができない。そこに近所の大学生が通りかかり、川船の老人と一緒に私は川から引き揚げられたといったところだろう。

二度目は大都市のビルの中で

次に溺れたのはビルの中だった。私は幼いころ大阪の都心、梅田近くに住んでいた。大阪の都心部も空襲で焼け野が原になったが、戦後急速に街の復興が進められた。しかし、空襲を受けた状態のままになっていたところも多く、そうしたところが私たち子供の遊び場ともなっていた。私の溺れた現場は、川の近くに建っていた三階建てのビルの中で、どうも川とビルの地下が水脈でつながっているらしく、地下二階と思われたビルの地下は、やや緑がかった水で満たされていて、私は地下への階段を歩いて降りるのが好きだった。毎日、毎日階段を下りて少しづつ深くなっていくことが楽しくて、ただ一人でこの秘密の遊びに耽っていた。ある時、苔むした階段に足を滑らせて、あっという間にビルの中の池で溺れたのだった。そこに偶然、ビルの中の池でザリガニを獲ろうとした遊び友達がこのビルにやってきて、私を発見したというわけだ。友達は私の溺れている様子が面白くてビルの玄関を出て、遅れてやってきた友達と一緒にはしゃいでいた。ところがそれを見た近所の高校生が不審に思ってビルの中に入り、そこで半ば意識を失っていた私を見つけ助けてくれたのだった。

そして三度目に溺れたのは、一人で小さな堀の縁に座って水の中の魚を見ているときだった。なぜかその時は都会の川なのに水が透き通っていたようで、魚の泳ぐ姿が見えていた。その魚を見守っていた私は、あまりに手元近くに魚がいるので、つい魚をつかもうと水の中に手を入れた。子供の頃は頭が三頭身ぐらいで、しかも重量バランスが頭に集中しているので、そのまま前倒しになって川にはまってしまった。川の中で私がバチャバチャと水しぶきを上げているのを見た高校生二人、私を急いで水から引き揚げてくれた。そういう意味で、私がいま生きているのは、私を助けてくださった方々のおかげなので、これだけは子供の時から感謝を忘れてことがない。

私にとっての水難のトラウマ

ところで、さすが三度も水に溺れて気を失った状態で助けられたとなると、何らかのトラウマ残ることは避けられない。助けられたときは三度とも私に意識がなかったので、苦しかった情景を覚えているわけではないし、苦しかった記憶があるわけではない。だから日常的には何らトラウマはないように思えたが、私だけにわかるトラウマが私の心の中に居座ってしまったようだった。私が、プールであったり、海水浴場であったり、水の中に入ると、私の心が私の体の中から抜け出して、地上三メートルくらいの高さのところに停止し、そこから私を観察しているようになる。例えば泳いでいると、時に体から離れている心が、私自身に忍び寄って、なかなかうまく泳いでいるとほめてくれたりする。

私も水の中に入ったといっても、放心したり、自分を喪失したことはなく、泳いでいるときに友達が話しかけてきても、私は卒なく対応できて、話しかけてきた友人は私を少しも変だとは思わない。私の水に入ると心が体から離れていく「離人症」的な習慣というか心理は、今もそのまま続いているが、きっと心理的には何か不都合はあるのだろうが、この年になって、いまさら専門家に聞いても意味がないような気がするのだ。


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