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「ミョウガ」にまつわるのどかな思い出

終戦近くに疎開した岡山の田舎が私の出身地

わが家は戦時中、大阪空襲が激しくなって、食べ物にも事欠くようになったので、家族で大阪を離れて岡山の田舎に疎開した。私の家族は私を除いた全員が大阪出身で、私一人が戦後も疎開先にとどまっていた岡山で生まれたので、正確に言うと私は岡山県出身ということになる。
親しい人と話している場合でも、漠然とわが家は大阪出身者の家族と思われているので、あえて私一人が岡山県生まれということになると、何かといろいろ説明しなければならないことが多くなるので、いつも大阪出身という顔をしていた。ところで私は戦後に生まれてすぐに大阪に戻ったので、本当のところは岡山とのつながりは薄い。岡山の疎開先は遠縁の家のようだが、どのような遠縁なのかはいまだに知らない。

しかしそういういきさつで、家族のうちの誰かは岡山と多少なりとも関係を維持しなくてはならないと考えたのか、子供の頃の私は二年に一度くらいは夏休みに岡山に行っていた。といっても私一人で岡山に行ける訳もないので、行き返りは母が付き添った。私が岡山に行っていた時代は、まだ日本中が貧しかったので、岡山の食料事情も決して良くはなかった。もともと岡山に疎開した動機は、大阪では食料の調達が困難だったので、多少食糧事情が良かった岡山に疎開したのだが、私が生まれたころにはすでに戦争に負けていて、食料事情は少しもよくなかった。

パン食のおかずはミョウガの炒め物

私がよく岡山に行っていたときは、戦後10年以上経っていたが、まだ食糧事情は改善されていなかったが、私が岡山に行くと、都会では米食ではなくてパン食が中心だろうと遠縁のお母さんが配慮してくれて、朝食はその当時入手が難しかったパンを苦労して提供してくれていた。しかしパン食につきもののバターやジャムもなく、朝になると遠縁の家のお母さんが、娘と一緒に家のそばにある池に行って池の端に生えているミョウガを採ってくるように命じた。だから朝は、ミョウガの炒め物とパンが定番の朝食だった。それだけではなくて、昼食も晩御飯も、基本的にミョウガがメニューの一部を担っていた。私のミョウガ嫌いは、その時の経験とつながっているのだと思う。
また、遠縁の家があるのは岡山の辺鄙な地域なので、都会の店で売っているお菓子が手に入りにくかったからか、おひつの周りにこびりついていた米粒を洗って集めて日に干して、乾いた米粒に砂糖をまぶして炒めたものをよく作ってくれた。しかしその後、日本の経済復興と歩調を合わせるように、元疎開先でも食生活が急速に向上し、気が付けば大阪と岡山の生活文化は急速に平均化し、モノによっては大阪より岡山の方が進んでいるようなこともあった。

後になって理解するのだが、それはテレビの普及のせいだった。生活文化の動向はテレビのコマーシャルによって全国各地のつづ浦々に伝えられたので、この辺りはテレビの情報への依存度が高いのだと思われた。私が中学の時に岡山に行ったときは、アメリカから入ってきた流行が、あるいはPOPミュージックが大阪より先に岡山に伝わっていた。しかし何でもかんでも同じように全国の生活文化が平準化したわけではなく、朝になると池のそばに生えているミョウガを採る習慣はその後、少しも変わることがなかった。


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