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画鋲のチェンバロ

かつてはコンサートでも珍しかったチェンバロの演奏

私が音楽の仕事をしていた若い頃、大都市はともかく、人口の少ない地域ではコンサートの設備環境も不十分なものだった。しかし、それだからこそ日頃あまり聞くことのできなかった多様な音楽に対する期待も大きく、音楽のプログラムへの要望もかなりレベルが高かった。当時、チェンバロが中心的な楽器であったり、編成の中でチェンバロが重要な役目を担うプログラムは少なかったが、たまにチェンバロが重要な役目を担うプログラムがリクエストされることがあった。当時私たちの業界では横のネットワークが強く、例えばチェンバロが必要なら東京や大阪から運んできてすぐにリクエストに応える体制は出来上がっていたが、地域によってはそのために特別の出費を負担することが難しいケースも少なくなかった。
こうした時は、地域の主催者と話し合って、チェンバロを必要としないプログラムに差し替えたり、チェンバロの役割をピアノに換えたりして公演をすることが多かった。しかし時には、主催者側にチェンバロの音色がなければ話にならにという人がいて、経費を使わずある程度の満足感を与えなくてはならず、仕方なく奥の手を使わなくてはならなくなった。

ピアノのハンマーのフェルトに画鋲を打って

それは、ピアノの弦をたたくハンマー部分のフェルトに画鋲を打つという方法だった。フェルトの画鋲部分が、ハンマーをたたくことになるので、チャカチャカとそう聴けばそう聴こえるチェンバロの音色に似た音になる。圧倒的にチェンバロの独奏が中心で、チェンバロの音しか聞こえない状況でなければ、大半の人の耳にはあまり違和感なく聴こえるのだった。チェンバロの代用品による演奏だったが、私たちの自画自賛といわれればそれまでだが、演奏会は成功裏に終えることができた。

しかしこうした施設面や設備のことで私たち音楽関係者が苦労したのは一瞬のことで、高度成長を遂げ始めた日本では、箱モノ行政と呼ばれたコンサートホールや各種劇場、公共施設の建設ラッシュが続き、瞬くまに全国各地に立派なコンサートホールが誕生することになった。しかもホールの設備も一流になり、公民館にあった戦前の古いピアノやベーゼンドルファーなど戦前に輸入された欧米のピアノなどが、次々にスタンウェイやヤマハのフルコンサートピアノになっていった、日本人のブランド志向によるものか、定員が少ない小さなコンサートホールでも、フルコンサートのピアノを容れようとする傾向があった。

クラシック音楽先進国の昨日の姿

その後、日本のコンサート環境が国際的にも一流になっていた頃、私が音楽仲間とコンサート準備中のステージの上で雑談をしていた。つまり、ピアノのハンマーに画鋲を打ったチェンバロで間に合わせていたという昔の話をしていたところ、若いスタッフの一人が、そんなまがい物で観客が満足するはずがないと強く反論した。すると黙ってピアノのピッチを調整していた中年のピアノ調律師が、ムッとした顔で「日本のコンサート環境は世界のトップクラスにあるというものの、本当に少し前までの日本の音楽公演環境は、そんな程度のものだったんだ」と、ポツリと呟いだ。


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