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築港の中華菜館

古く苦しめる肉の思い出


大阪の江戸堀北通りから築港までは、車に乗ればすぐだった。私の家はその後三年ほどで大阪市の郊外に引っ越したので、この地域のその後の変化については私は語る立場にはない。ただ引っ越すまでは割合と頻繁に菜館を訪れていた。この頃の私はといえば、多分十歳くらいと思われるので、まるっきりの子供だった。大阪の築港は漢字からもわかる通り、大阪港のすぐ近くで、子供心にもエキゾチックな風情が好きだった。まだ戦後十年ほどしかたっていないので、空襲の残骸がそこかしこに残っていて、私たちがよく行っていた菜館のビルも一部が空襲の被害を受けていた。壊れたところを応急に補修して営業しているといった風情だった。

私の家は裕福ではなかったが、父がいわゆるグルメで、この店を好んでいた。この店では結構本格的な中華料理が食べられた。私の評価ではなく、父が親しい友人を菜館に招いていたので、この店の中華料理が絶品だというのは彼らの受け売りだ。とはいえ、私も特別に好きだった料理があった。それは豚肉の唐揚げだが、いわゆる唐揚げではなく、酢豚用の酢と醤油に長く豚肉を漬け込んだものを唐揚げしたものだった。通常そういうタイプのメニューがあったのか、あるいは私があまりにそのメニューを所望したので、菜館のコックがわが家のためにわざわざ作っていてくれた可能性もあった。いつもかなり年の離れた兄も同席していて、私がいつものメニューを第一に挙げると兄は「ああ、古く苦しめる肉やな!」と揶揄する。つまり酢豚の豚肉は、兄が言うには酢と醤油と薬味で長く苦しめるので、それであの味が出るのだと言っていた。それからずっと後のことだが、兄は大学で中国文学を専攻し、やがて中国の特派員として新聞記者になった。それでも「古く苦しめる肉やな!」と、相変わらず言い続けていたので、半ばは本当のことかもしれないと思うようになった。

しかこの話には続きがあって、私はいつも酢豚用の唐揚げを注文するのだが、その一皿を食べるにに夢中で、半分くらい食べたところでお腹はいっぱいになる。テーブルには様々な料理が並ぶのだが、実際のところ私が食べていたのは、いつも唐揚げだった。

コックのユニフォームの謎

今になってそのころのことを思い出すことがあるのだが、コックがどんなユニフォームだったか一向に覚えていない。戦後十年の頃だから戦前からの中国人コックの服装と同じだったと思うのだが、どうしても思いだせない。おそらくあれだけの名品を食べさせる店なので、きっと由緒あるユニフォームを着てたに違いないとかってに想像していた。そんなつまらないことが気になるので、次兄に電話してそのことを聞いてみると、中華のコックの帽子をかぶっていたことは間違いがない。だからおそらく戦前の普通のユニフォームだったのでないかということだった。それでなんとなく納得したのだが、それから二年後、長兄の法事で兄弟が集まった時、その場にある写真が登場した。その写真は、例の菜館で家族のちょっとした祝い事があって、その時の集合写真だった。その写真の菜館のコックの着衣を子細に観察してみると、どうやら葛飾の寅さんが来ているダボシャツのように見える。みんなでその写真を見ながら、やはりダボシャツに違いないと判断した。世の中の真実は意外にこんなものだろうという結論になった。



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