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人生の❝心の音❞

ビルの七階から見る京の町屋

私は今、京都の下京のマンションに住んでいる。私は7階建ての中層のマンションの上の方に住んでいて、周囲は昔の町屋が取り囲んでいた。上からマンションの周りの町を眺めると、ほとんどすべてが瓦屋根で、一部に瓦屋根に換えてソーラーパネルが見える。上から見た町屋の形は、うなぎの寝床と呼ばれている通り、一方が長く伸びた長方形の形状だ。
上から京都の町屋が見えるので、友人たちもよく私の部屋に遊びに来る。友人たちはこうした町屋の様子が好ましいらしく、私もこんな場所に住みたいというのだが、おそらくこれが京都人にとっての❝原風景❞といったところだと思う。一方私は幼少時から大阪の繁華街の中で育ったので、私にとっての原風景は雑多で不定形な繁華街ということになる。しかし、高層のマンションに住んでいたことはないので、上から見える形状としての明確なイメージはない。どちらかというと、風景より住んでいた町の音の方が印象に残っていた。

繁華街で育った私の原風景と心の音

私の家は、駅前側に三軒のパチンコ屋があって、そのパチンコ屋に隣接して、三階にわたって展開している大きな喫茶店があって、その周囲に小さなスナックや喫茶店が密集している。大きな繁華街は、私鉄の線路によって二分されていて、繁華街に住んでいたとは言うものの、正確に言うと子供の頃の私は、この繁華街の半分に帰属していた。朝の九時ごろになると、パチン屋が使っているパチンコの玉を一斉に洗うゴー!!という大音響が突然響き渡る。この大音響は、私や弟たちにとっての目覚まし時計のようなものであったが、実際のところは喧しくて勉強にも手がつかないほどだった。しかし大人になって思い出すと、この生活を脅かすような大音響は、私にとっての❝心の音❞といったもののように思える。

現代京都の「音の風物詩」

ひるがえって、京都の❝心の音❞を考えてみると、京の町の音の風物詩といった趣向で言えば、お寺の鐘の音や、托鉢僧の喜捨を受け取る物音、朝の路地の石畳をかける主婦の下駄の音、おくどさんに火を入れる音、大原女の物売りの声といったところかも知れないが、今は雑踏にかき消され、もともとその音の元となる生活自体が失われているので、よほど静かな地域に行かなければ京の音の風物詩も失われてしまっている。そこで、現代のリアルの京都の音といわれても、他の都市とほとんど変わるものはないだろう。ただ京都は日本最大の観光都市で、今はインバウンドの旅行客があふれる町だけに、店や商業施設のBGMとして町中に流れ出る、琴の音や、祇園祭のお囃子、除夜の鐘などが京都の音に成り代わっている。私たちも、そろそろこの音になれる必要があるのだろうか。

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