いよわ「大女優さん」考察――フィクションと現実のパラドックス
はじめに
波方と申します。この記事ではボカロ曲「大女優さん / いよわ feat.花隈千冬」の考察をしていきます。あくまで個人的な解釈の一つにすぎないことにご留意ください。
あらすじ
登場人物
・大女優1
・大女優2
・大女優3(仮に=「大女優さん」とする)
ストーリー
「まず女優をゆめ腕がいい筋まで募るな。」=「まず女優を募ろう。決して腕がいい脚本家まで募るな。」(?)
大女優さんはショートフィルムを録るために、自分が書いたシナリオを後輩二人(大女優1、大女優2)に演じてもらうことになる。そのシナリオとは、「二人だったら到底するわけのない殴り合いの大喧嘩」である。だとすれば、「ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、いかれた一人芝居」とは一体何なのか?
演技として大喧嘩をさせていたはずがリアルなファイトに発展。「ああ、あいつらにサインでも貰っておけばよかった。」と思っていたということなので、代わりに演じた大女優さんは後輩二人と比べて演技が上手くなかったしその自覚があったと考えられる。
しかしショートフィルムは入賞した。それをきっかけに大女優さんは女優としてのキャリアを歩み始め、ついには名前の通り「大女優」と呼べるほどの大御所となるのである。次の場面ではその「大女優」として受けるインタビューのシーンにいきなり移り変わる。
転回
「古びたデータ」=最初に録ったショートフィルムであろうということは、流れからして確からしい。そして、その恥ずかしい稚拙なシナリオに思わず苦笑してしまった現実の自分、その瞬間までもが、ある映画の内容であることが明るみになる。ここまではいい。
だが、その映画を見てなぜ大女優さんは同じように笑い声を出してしまったのか?
最初に録ったショートフィルムこそが、その当の映画、つまり自分の人生そのものだったとしたら? 全ての辻褄が合うのである。同時に、無限の入れ子構造、数々のパラドックスの空間が炸裂する。このことこそが「大女優さん」という作品に深みを与えていると私は感じる。「ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、いかれた一人芝居」とはまさにこのことのように思われる。
これまでの歌詞や2サビの映像を見返してみてほしい。
「あまりにも都合の良い筋書き、あふれ出る妄想、理想的に創られた自分。言葉遊びの端まで吊り下げられた自尊心の塊。」そのものではないか。筋書きの都合の良さとは、それ(=人生)がまさに筋書き通りに完璧に動く当のそのことではないだろうか。つまり、シナリオの稚拙さと現実の稚拙さが一致している。
当のインタビューにおいて大女優さんは次のような一面を見せる。
自分のプロットを「完璧な」と評価していた大女優さんだが、それが「都合の良い」、笑ってしまうようなものだと発覚した今、「一番大衆ウケする、人気のシナリオ」に対して皮肉を漏らす態度には、一種の怨恨感情を読み取れないだろうか。(とはいっても少し強引だと思うし「その時点ではまだ古びたデータを見ていないのだから、そのような読みは時系列からしてナンセンスだ」という声もありそうだが、最初にショートフィルムを録る時点で自分のプロットに失望することまでプロットに含めていることを踏まえれば不可能な読みではないだろう。脱線してしまったが、ここではそういったパラドキシカルな可能性を一例として示しておきたかった。)
大女優さんは後輩二人(大女優1、大女優2)に「二人だったら到底するわけのない殴り合いの大喧嘩」を起こさせた。芝居としてである。だが起こってしまったのである、ガチのキャットファイトが。書かれたプロットとしての必然性が、するわけもない大喧嘩を(二重に)させてしまったのだ。
ともすれば、都合の良い筋書きによって現実を書き換えられてしまったことを「キャットファイト」において「狂科学(マッドサイエンス)?黒魔術(ブラックマジック)?」などと形容しているのではないだろうか。また「もう最悪!なんで…?」と不可解に思っているのではないだろうか。
大女優3は確かに女優として成功した。ではなぜ大女優さんは「大女優もどき」と言われるのか。それは、きちんと筋書き通りに大女優になったからである。上手くいきすぎることは(たとえそれが本当に現実だとしても)当該のものを「偽」たらしめる。なにかそのような思想があるのだと思う。大女優になりたい。だが大女優もどきとは言われたくない。ここではそれはジレンマになっている。
MV終盤のエンドロールではキャストの名前が■で伏せられている。これには様々な可能性が考えられるが、私としては次の二つを挙げる。
①大女優1、2の役が後輩二人(カットがお釈迦になることまで含めて)なのか、全て大女優さんなのか、決めることができない。
②現実こそが映画であり、映画こそが現実であるというパラドックスを表している。つまり、大女優Nを演じる彼女らもまた大女優Nという役であり、それを演じる彼女らもまた大女優Nという役であり、……永遠に本名が出てこない。
この作品の特徴的な点は、脚本が未来の現実を作り出して実際にその通りに進むことだと考える。現実が妄想を作り出すのではない。その逆であって、妄想が現実を作り出すのである。言い換えれば、妄想とは、現実そのものである。
問題は、彼女らが実際に筋書き通りに行動してしまうことである。なぜそうなるのかという問いを立てれば、それもまた筋書きだからである。際限のない入れ子構造の必然性を成り立たせているのは、どこか最初の妄想ではないか? そんな疑念が芽生えた。