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【考察・解説・感想】『熱異常 / いよわ』が面白い!

はじめに

 作品の考察というものは、作者が「語る」ことよりもむしろ「語らない/発言しない」ことで作り上げられてきたイメージを塗り替えてしまう可能性があるという点で、必ずpowerを持っています(そしてこの記事も)。
 ですが、そのせいで活動者の重荷になることや、ましてやプライバシーに踏み込むようなことはあってはならないと私は考えています。
 したがって、本記事では考察は個人の見解という体でさせていただき、あくまで二次創作程度のものとして受け取っていただけたら幸いです。

 『熱異常』はThe VOCALOID Collection(ボカコレ) 2022秋でいよわ氏によってUTAU音源「足立レイ」を使用して投稿された楽曲です。本記事ではこの楽曲の歌詞を中心に考察していきたいと思います。


方針

 この曲の歌詞は先頭から末尾までの全体が鍵括弧でくくられています。括弧は歌詞の全てがレコーダーに記録された音声であることを表しています。そして歌詞が
① 足立レイとは別の「私」によるもの
なのか
② 足立レイ自身によるもの
なのかは解釈が分かれるので、それぞれの場合や、どちらであっても矛盾が生じない範囲で歌詞をひも解いていきたいと思います。

 また、細かい部分の解釈は他の方の考察で既出であることが多いため、あるいは判断しきれないため、全てを追うことはせずに一部を抜粋する形で行うことをご了承ください。

歌詞に「血管」という単語が使われていることも考え、まずは①だと仮定して考察を進めていきます。


① 歌詞が足立レイとは別の「私」によるものである場合

どこに送るあてもなく
あわれな独り言を記している

 本当にあてがないなら、なぜこんなことをしているのか。
 それは、本当は音声が誰かに発見されることを望んでいるからです。

生き汚く生きて何かを創ったら
あなたの気持ちが1000年生きられるかもしれないから

1000年生きてる / いよわ feat.初音ミク

 同氏の別の楽曲にこのようなフレーズがあり、そこには「死んだら骨も残らず、誰も知る人がいなくなっていくが、作品=ヘリテージ(遺産)を遺すことで誰かの記憶に残る可能性がある」という死生観があります。つまり、人間が脆く死んでいくことの無常さを嘆いていて、そこに一縷の希望——この希望は、その薄さゆえに全面的には肯定されておらず、無常さに再帰しています。美しいですね——を与えているのです。
 同様の傾向が『熱異常』にも表れています。来る終末に絶望した「私」は音声をレコーダーに託します。そして、足立レイがレコーダーを拾い上げて歌にすることで実際この作品ができました。どこの誰とも知れない人間が時間の壁・次元の壁を超えて私たちに干渉したわけです。スゴくないですか。


② 歌詞が足立レイ自身によるものである場合

 「変数」「電撃」「中枢」など足立レイの存在を匂わせるような単語も使われていることから、この場合についても考察していきます。


「死んだ変数で繰り返す
数え事が孕んだ熱

 「変数」とはプログラミング用語で、ソースコード中でその名前によって識別される、データの記憶域のことをさします(らしいです)。ある変数に対して値を定義し、関数内で参照することで処理を実行することができます。要は関数f(x)におけるxみたいなものです。
 そして私の解釈では「死んだ変数で繰り返す」は、スコープ(変数の使用が有効な空間的範囲)外の変数、または寿命(変数の使用が有効な時間的範囲)が尽きて捨てられた変数を参照しようとするができない、というような光景を想像させられました。
 「数え事が孕んだ熱」からは何回も処理を繰り返したことでCPUに負荷がかかり、発熱しているイメージが浮かびます。


電撃と見紛うような
恐怖が血管の中に混ざる

 足立レイは「ロボット」なので血管は存在しないはずです。よってこの場合、「血管」という単語は文字通りの意味ではなく、体を走る電気回路のようなものの暗喩として受け取らなければいけません。電撃と見紛うような恐怖って一体どんなものでしょうね。電撃という言葉は大きな電流や非常に素早いことがらを表しますから、情報量の多さと突然の出来事ゆえに混乱して理解が追いつかない、といった感じでしょうか。


神が成した歴史の
結ぶ答えは砂の味がする

 「砂の味」は恐らく、何らかの原因で星が灼熱地獄に包まれ、干からびてしまったことを表しています。
 足立レイにとって創造主は人間なので、神=人間と置き換えて読んでもよさそうです。どちらにしろ、明示はされていませんが、上位の存在でさえも運命に抗えないことに対する失意落胆が込められたような詞だと思います。大げさに言えば、「神」に対する信仰または畏怖が失われてしまった状態であり、ニヒリズム的になっているということです。


思考の成れ果て
その中枢には熱異常が起こっている

 これも多分足立レイのプロセッサのことです。解決策を出そうとして何万回も処理を繰り返したことで、熱暴走を起こしている状態だと思います。
 つまり、「熱異常」は外界ともに足立レイ自身の様子も表す言葉になります。


①・②のどちらであってもよい場合

微粒子の濃い煙の向こうに
黒い鎖鎌がついてきている

 鎖鎌とは、柄に鎖と分銅が繋がれた鎌のことをいいます。「黒い鎖鎌」は、もしかしたら音符または休符を表しているのかもしれません。(可能性は低いです。)


安楽椅子の上
腐りきった三日月が笑っている

 この部分の解釈は非常に難しいです。可能性としては
月の公転が止まったので満ち欠けが三日月のまま止まり、そのことを安楽椅子の上・腐りきったと表現している説

地上で起こる終末に対してあたかも月が「我関せず」という態度をとっているように思えることを擬人法で表現している説
が挙げられますが、あくまで可能性の域を出ません。鵜吞みにしないでください。


すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
なにかが来ている

 月の公転が止まると遠心力がなくなるので地球に落ちてきます。巨大隕石です。なのでその場合、「なにか」に入るのは「月」です。が、これは流石にないと思います。ただ、いよわさんの処女作『終末のお天気』に似ていると思ったので書きたくて書きました。とにかく、不安と恐怖と焦燥感をもたらす「なにか」です。


大声で泣いた後
救いの旗に火を放つ人々と
コレクションにキスをして
甘んじて棺桶に籠る骸骨が
また
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
どうかしてる
そう囁いた

 「どうかしてる」と不服を唱えながらも世界の崩壊に絶望して諦めの様相を呈している人々に対し、やや風刺的な表現が用いられています。


未来永劫誰もが
救われる理想郷があったなら
そう口を揃えた大人たちが
乗りこんだ舟は爆ぜた

 ノアの方舟が爆ぜました。希望を抱いても結果はダメだったようです。
 どうすりゃええねん


黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
彼らを見ている

  何度も同じ言葉を繰り返すところにやりきれない焦りが感じられて好きです。
 「黒い星」=「熱異常」の原因(太陽?)だと考えますが、瞳孔という意味も合わせたダブルミーニングであるかもしれません。あるいは、もっと広い、抽象的で想像的な次元の対象であるようにも感じられます。
 他にはざっと検索してみたところ、「太陽の黒点」説と「黒星とかけた言葉遊び」説がありました。


祈り
苦しみ
同情
憐れみにさえ
じきに値がつく

                 ↓

1000年生きてる / いよわ feat.初音ミク


幸福を手放なす事こそ
美学であると諭す魚が
自意識の海を泳ぐ
垂れ流した血の匂いが立ちこめる

 シニカルな表現ですね。自意識の海を泳ぐということは、逆に言えば現実の「海」を全く泳げていません(熱異常によって海が干からびてしまったことと合わせています)。なにもこれは実際の魚や海である必要はなく、人間にも当てはまります。「生きたい」という生物の本能や直感とは真逆の方向を向いています。
 「垂れ流した血の匂いが立ちこめる」という詞は、幸福を手放なす事=諦めて自ら死を選んだことを肯定する自意識が「臭い」と言っているようにまで思えます。怖っ


黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
黒い星が
私を見ている

 1番では「彼ら」だった部分が2番では「私」になっていて、明らかに危機が近づいていることを感じさせます。
 文字通りの意味で捉えれば、「黒い星」という言葉は本来「見られる」客体でしかありません。「見る」という行為は常に対象を一方的に評価・解釈するという性質を伴うものですが、詞では逆に「黒い星」が「見る」側に、「私」は「見られる」側に回っており、権限を引き渡してしまっています。このような表現から、そこにはまるで生殺与奪の権を握られているかのような、「黒い星」に対する畏怖が発生しているように感じます。


希望で手が汚れてる

 天才すぎ。なんだこの表現。あえて何も言いません


手を取り合い
愛し合えたら
ついに叶わなかった夢を殺す

 これも好き。ただの夢じゃなくて叶わなかった夢を殺すんです。つまり二回死んでます。


おわりに

 ここからは都市伝説だと思って読んでください。

誰か/あなたの澄んだ瞳の
色をした星に問いかけている

 誰の瞳?

それは


初音ミクの瞳です。つまり、現在の地球であり、私たちのボカロ界に問いかけています。

 何を?


 「とりとめのない日常を、とりとめのないまま他の人に合わせて前を向いて生きていくこと」を要求されるしんどさに耐えかねて、終末の物語をつくり出すことに対して本当にそれでいいのか?と問うています。
 例えばいよわ氏の楽曲『終末のお天気』では次のようなフレーズで始まった後、突如隕石の落下が始まって世界が終わりに向かってしまうという展開になっています。

言葉を選んで 空気を読みまくって
生きてくのしんどくない?
顔色伺って 腹探り合って
今日も人間だった、私。

終末のお天気 / flower

 ボカロに限らず、現代のサブカルにも(主語デカ)こういった性質の作風はときどき見受けられるように思います。
 世界の終焉が訪れることになった物語のキャラクターからしてみれば、それは耐え難い苦痛であり——『熱異常』からもその悲痛な叫びが伝わってきますね——、その際起こる「祈り」「苦しみ」「同情」「憐れみ」といった気持ちに値がつく=消費の対象になることに対して異議を唱えている。(ですのでこの場合の「黒い星」とは「消費者のまなざし」のことというのが一つの答えになります。)そんなふうにも見えませんか?



おわり

ここまでお読みいただきありがとうございます。

Thank you, いよわさん and 読者さん !