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反省会と今後の展望

さてさて、いつのまにか19歳になった。律儀に18歳の葬送をするつもりだったのになんとなく過ぎていた。新年や年度末、誕生日などは何かと清算したい気持ちになるのは私だけだろうか。そんな感じで、振り返りとか性に合わないことをしてみたい。案外、義務教育でやらされていた強制的な振り返りは大事だったのかもしれない。効率化を図って箇条書きにしたくなっているが理系脳だと思われたくないからやめとく。

去年の今頃、東京に上京した。東京に来れば何か手に入るだろうと意気込んで一人暮らしが始まったはいいものの、期待するものはすぐにやってこなかった。この街は大勢の人の流れに身を任せれば大体は正解に行き着くのだが、別に毎回正解に行き着く雑魚狩りゲームがしたかった訳じゃない。そのあと、ああやっぱり自分で何かしなきゃ始まらないよねって最初の方で気づいた。2023年の年初めに試してた短編はプロットであっけなく挫折したから断念。(このときから、そもそも創作能力ないのではとずっと疑っている。)正直、大学の勉強は楽しく生きるためのものでなくて、上手に長生きするためのものが4割くらいなので若干つまらない。あと、最初の方に群れたあのダサい集団って死ぬほど恥だしつまらない。何かしようしようって考えていた春過ぎ。そういえば、高野悦子の『20歳の原点』を高校生のときに読んだことを思い出した。あの本は私のバイブルである。20歳で自殺した高野悦子は私に、詩を書かなければいけないことを教えてくれた。詩は書かなけばいけないのである。別に詩は好きでも嫌いでもない。他人の詩が面白いと感じるようになったのはもっと先であるし。だから詩を書くことになった。書くことにした。書く。

どうやら、詩、というものはルールとマナーの範囲で戦わせることができるらしい。詩同士で戦うのではなく、詩vs人間である。良し悪し好き嫌いが多少なりともあるんだとか。そして、詩が書くものであるならば表現の場というものがある。せっかく詩を所持しているのならば自分のなかだけに留めず、他人にみせてやってもいいぞと。夏頃まではnoteに拙作を公開していた。赤子であったが、おっぱいも吸ったことのない赤子であったので1番綺麗なものが書けた。私の真の姿はそこにあった。ただ、文才もなく、口下手な私の詩は、私本体の言語化としてはイマイチだった。そして、なんやかんやで夏休みが終わった。

大学も後期になった。群れからは脱走して、群れたくないと嘆く群れとホンモノのはぐれものと出会ったりした。この頃から良い友人と喋ることが多くなったような気がする。彼らとは水中で潜って泡で会話してるような感覚。あと、半地下の喫茶店を発見した。変な人しか来ないからお気に入りの店である。週2、3ぐらいで通ってるとだんだん友人が増えていく。私よりも数十段とか数百段上の螺旋階段にいる方々が話しかけてくれる。東京ってほんとは面白いじゃん。10月になってからは古書〇〇書房で働かせてもらっている。所謂、本が好きすぎる故に、かもしれない。あと、女の子と3ヶ月同棲して別れた。これを1番反省した方がいい。

各地に潜む詩人と名乗りたい人間たち(結局私含め)は詩誌や同人誌に寄稿するのが定石らしかった。しかし、現代詩手帖、詩と思想、ユリイカなどなど、御国の方々の御国詩誌に私の詩が届くのは恐れ多いという変な謙遜がある。というか御国は御国で勝手にやってろ。(結局載ったら嬉しい)ので、丁度良く波に乗ってるココア共和国に出した。初めて寄稿した11月号に佳作で載せてもらった。やっぱり載ったら載ったで嬉しいのである。それから2024年の1月は表紙に名前が載った。私は、そんなことやらを祖父に報告するのがとても楽しみだった。小学生のとき、私の学校で書いた俳句が新聞に載ったのを喜んでくれたことがある。なんとなくだが、祖父の嗜好は複製されて父を超えて私のゲノムに貼り付けされてるので、褒めてくれるに違いないと思った。案の定ひどく喜んでくれて、他人に詩を見せるのも悪くないなと、再び感じた。

年が明けて2月に北海道に行った。ずっと寒かった。3月にはタイに行く予定をずっと前から立てていたのに私の不手際で延期になってしまった。一緒に行く友人には本当にに申し訳ないことをしてしまった。これも1番反省すること。それから、喫茶店の店主に唆されてSigma fpを家族ローンで購入した。写真って詩とは真逆の性質だなと。ずっと前から言ってるように詩は瞬間に内包されて朽ちていくのだが、写真は記録として詩(瞬間)を閉じ込める。気がするのである。
*この辺のことは無知で賢しらな私が語ることではないのでいつか記す。
だから店主には感謝している。またもや、祖父のクローンに近付いてしまった。映像にも手を出してみたいものである。昨日は間違えて?間違えてないがf-1後期をポチった。決して間違えていない。

ようやく、というか、あっという間に一年が過ぎた。結局まだ何もしてないんじゃないか。進んだフリなんじゃないかとヒヤヒヤしている。けど、19歳にまたまた期待してしまっている。これから何をしようかとずっとずっと考えている。友人は「なんか俺らも、なんかこう、なんかしたいよね」と煙草の煙を吐きながら言っていた。宣言は実行出来なかった場合、割と恥ずかしいので、出来たらいいよね程度のことを述べる。(詩と音の採取するプロジェクト全然実行しなかったし)

ココアに関しては常時傑作にならないと意味がないので毎月寄稿。いままでnoteに大体の詩を載せていたが、これからは詩(のようなもの)を出すのはちまちまやっていくと思う。写真もあげたりしてみたい。その代わり、月刊や季刊ものを試そうかなと。現代思想みたいなたいそうなものは私には到底出来ないが、いろいろ企画してみたいのである。私が方向性をある程度試行錯誤はできるものの、私個人だけが書いても、それは私のためだけのつまらないものになってしまう。表に出すことが最終目標ではないけれど、やりたいことはけつの穴の方までちゃんとやりたいので、あわよくばフリーペーパー。まだ何も練っていないが協力してくれる方々がいるならば協力していただきたい次第である。目標は個人としてのものではなく、個人たちとして意味を持った作品にしたい。意味なんてもたせなくてもいいんだけどね。初期段階はnoteを想定しているため、mp3リンク、画像、文字は使用可能。なんとなくだけど、実らなければ友人間や地域のマガジン感で終わる可能性大。やってみたいだけです。(おじゃんになる可能性も!)とりあえずみんな寄稿してくれ。写真に関しては何するとかいうより、撮る。ただそれだけ。写真集も興味がでてきた。ついこの間、絶対に非公開のβ版が完成したのだ。そして、詩も書く。ただそれだけ。再来年は詩集出したい!出したい!

長々と3000文字近くこんな稚拙な文章を綴ってしまった。ここまでとは思わなかったが、こんなにも普通の文章が下手である事実を、現代詩という曖昧なもので私は隠しているのだと実感した。喋ることだって下手なのに。つらつらと群馬に帰る最中に入力しているが、言いたいことはこれから分けて書くはずなので終わりとする。

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