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2021年11月の記事一覧

【つの版】ウマと人類史:中世編33・日本遠征03

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1274年(文永11年/至元11年)陰暦10月、モンゴル・高麗連合軍は日本へ侵攻し、対馬・壱岐・肥前を蹂躙して博多湾に上陸しました。しかし鎌倉幕府の武士団の必死の抗戦によりすぐに撤退します。モンゴル皇帝クビライは諦めず、再び日本遠征を行おうとします。 ◆鋼◆ ◆戦◆ 南宋平定 日本への使節派遣や遠征は、宿敵である南宋を平定するにあたり、牽制を行うことが主な目的でした。日本と南宋は古来友好関係にあり、多くの宋人が日本へ亡命して

【つの版】ウマと人類史:中世編32・日本遠征02

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  モンゴル皇帝クビライは、高麗の彼方の日本へ使節を派遣して親善関係を結ぼうとしましたが、南宋と長年友好関係にあったためか日本から返事はありませんでした。怒ったクビライは繰り返し日本へ服属を迫るとともに、高麗には戦艦1000艘を作るよう命じ、兵を動かして威嚇します。いよいよモンゴル帝国の軍勢は海を越え、日本への遠征が始まります。 ◆龍◆ ◆戦◆ 襄樊陥落 モンゴル軍は1268年から五年に渡り、南宋の要衝・難攻不落の襄陽城と樊城を

【つの版】ウマと人類史:中世編31・日本遠征01

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  モンゴル帝国中央部で起きたオゴデイ家・チャガタイ家の反乱により、皇帝クビライは帝国西方への支配力が低下し、帝国東方を己の領国として経営することとなりました。漢地/キタイ、モンゴル高原、マンチュリア、チベットはほぼ平定され、残るは南宋、高麗の三別抄、そして日本です。 ◆珍◆ ◆島◆ 蒙使到来 日本とモンゴル帝国の戦争を、現代日本では「元寇」と呼びます。これは江戸時代に編纂された『大日本史』以後の呼称で、「元朝による侵略(寇)」

【つの版】ウマと人類史:中世編30・大元皇帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1264年、アリクブケはクビライに降伏し、4年に及んだ帝位争奪戦争は終結しました。クビライは1265年に改めてクリルタイを開催し、正式に即位しようとしましたが、同年にはチャガタイ家のアルグが、翌年にはフレグとベルケが相次いで逝去し、統一クリルタイ開催は頓挫します。また反クビライ派はオゴデイ家のカイドゥのもとに結集し、中央アジアで自立の動きを強めました。この反乱はクビライの死後も続き、モンゴル帝国の政治的統一は失われていくことになり

【つの版】ウマと人類史:中世編29・帝位争奪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1259年8月、モンゴル帝国皇帝モンケ・カアンは遠征先の重慶で崩御しました。西アジアへ遠征中の弟フレグには遠路ゆえなかなか訃報が伝わりませんでしたが、モンケとともに南宋侵攻を行っていた弟クビライには比較的早く伝わりました。モンゴル高原には末弟アリクブケがおり、帝位継承権を持っていますが実績は乏しい人物でした。ここに帝位継承戦争が勃発します。 ◆肉◆ ◆肉◆ 両帝並立 アリクブケは、チンギス・カンの末子トゥルイと、正妃ソルコク

【つの版】ウマと人類史:中世編28・旭烈西征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1251年、モンゴル帝国第四代皇帝に即位したモンケは、弟のクビライをゴビ以南の総督、フレグをアム川以南の総督に任命し、東アジアと西アジアに対する大遠征を開始させました。クビライはまず雲南の大理国を服属させ、モンケとともに南宋を討伐します。一方フレグはイラン高原から西、イラクやシリアへ向かいました。彼の遠征の様子を見てみましょう。 ◆進撃◆ ◆巨人◆ 旭烈西征  フレグはチンギス・カンの末子トゥルイと正妃ソルコクタニ・ベキの子

【つの版】ウマと人類史:中世編27・蒙哥登極

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1246年8月、モンゴル帝国第三代皇帝グユク・カンが即位しました。先代皇帝オゴデイの長男で、血縁上問題はありませんが、帝国西方には反グユク派のバトゥが健在です。この先どうなるでしょうか。 ◆王位◆ ◆争奪◆ 貴由短命 即位に尽力した母ドレゲネが10月に薨去すると、40歳の新皇帝グユクは足場を固めるため反対派の粛清に乗り出します。まずオゴデイ崩御後に帝位を狙っていたチンギスの末弟テムゲ・オッチギンを審問させますが、帝位継承権を

【つの版】ウマと人類史:中世編26・上天眷命

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1241年12月、モンゴル帝国第二代皇帝オゴデイ・カアンが崩御しました。各地の諸侯王は新たな君主を決めるクリルタイに参加するため、帝都カラコルムへ呼び集められます。 ◆天◆ ◆命◆ 後継紛糾 オゴデイには六人の妃がおり、七人の息子がいました。長男のグユクと次男のコデンは第六夫人ドレゲネの子で、三男のクチュは第一夫人ボラクチンの子でしたが、オゴデイはクチュが聡明なことから後継者に指名していました。しかし1236年にクチュが病死