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【つの版】倭国から日本へ17・聖徳太子

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

天下に労役と兵役を課した高句麗遠征の失敗により、隋では反乱が頻発し、各地に群雄が割拠し始めます。そして最後のひと押しは北方の突厥でした。高句麗を支援し、隋にけしかけていたのも突厥と思われます。テュルクとソグド人の騎兵及び商業・情報網を併せ持つ東西の突厥可汗国は、ペルシア帝国と東ローマ帝国との大戦争にも介入し、ユーラシア大陸最大の帝国として君臨していました。ただ部族抗争で分裂しやすいのが弱点でした。

◆突◆

◆厥◆

隋朝滅亡

煬帝はなおも皇帝として権威と権力を保っており、大業11年(615年)正月には東都洛陽で百官と大宴会を催し、突厥・新羅・靺鞨・契丹・西域など諸国から朝貢使節を招いて天下に天子の威厳を見せつけます。倭国や百済、高句麗の名はありませんが、『日本書紀』によればこの頃に犬上御田鍬らが最後の遣隋使として派遣されており、倭使もいたかも知れません。

十一年春正月甲午朔、大宴百僚。突厥、新羅、靺鞨、畢大辭、訶咄、傳越、烏那曷、波臘、吐火羅、俱慮建、忽論、靺鞨、訶多、沛汗、龜茲、疎勒、于闐、安國、曹國、何國、穆國、畢、衣密、失范延、伽折、契丹等國並遣使朝貢。…乙卯、大會蠻夷、設魚龍曼延之樂、頒賜各有差。(煬帝紀)

しかしこれも見せかけだけで、天下の大乱はとどまるところを知りません。賊徒は北の突厥と結んでおり、疑心暗鬼に陥った煬帝は重臣たちを次々と族滅します。5月には突厥を討つべく太原の汾陽宮に「避暑」と称して遷り、8月には長城を巡り雁門に着きます。しかし東突厥の始畢可汗は騎兵数十万を率いて城を囲み、煬帝は大いに恐れて天下に募兵し救援を要請する有様でした。かつて漢の高祖劉邦が匈奴の冒頓単于に囲まれたのと同じ状況です。

9月、突厥は包囲を解いて去り、10月に煬帝は洛陽へ帰還します。隋との間に何か屈辱的な条約が結ばれたと思しいのですが、隋にも唐にも屈辱ですから記されません。群盗の猖獗はいよいよ激しくなり、江南はほとんど隋の支配下を離れました。失意の煬帝は為すすべもなく、大業12年(616年)に洛陽を離れて江都(江蘇省揚州市)へ向かいました。盗賊のことを上奏する者は殺されるようになり、誰も煬帝へその事を言わなくなります。

大業13年(617年)には太原留守の唐公李淵が決起し、11月に大興城を制圧すると煬帝の孫のを新たな皇帝として擁立し、煬帝を引退したものとして勝手に太上皇とします。そして尚書令・大丞相・唐王として国政を委任されると、突厥と結びつつ各地の群雄を潰し、新王朝建設へ動き始めました。

江都では煬帝が政治を放棄し酒色に耽っていましたが、大業14年(618年)3月には将軍の宇文化及(宇文述の子)らが反乱を企て、煬帝の首を布で締めて弑殺します。そして煬帝の甥の浩を皇帝に擁立して実権を握ります。5月にこの報が大興城に届くと、李淵は6月に楊侑から禅譲を受け唐の皇帝(武帝)に即位します。宇文化及は江都の隋軍を率いて唐を攻めますが勝てず、9月に楊浩から禅譲を受けて許の皇帝となります。東都洛陽では6月に王世充が楊侗を擁立していますが、翌年王世充に禅譲して隋は完全に滅びました。

大唐建国

隋末群雄割據圖

この時、唐は陝西と太原を抑えていた群雄のひとつに過ぎませんでした。武帝李淵は皇子らや群臣と協力して、これらを次々に制圧し、潰し合わせ、あるいは恭順させて行きます。その背後には突厥がいました。

突厥では始畢可汗が619年に薨去し、弟の処羅可汗が即位して隋からの亡命者を迎え入れ、煬帝の孫の政道を隋王に封じています。これは隋の宗女である義成公主がレビラト婚(前の君主の妻を次の君主が娶る)によって次々と可汗の后となったためでした。処羅可汗が620年に薨去すると弟の咄苾(頡利可汗)が即位し、唐に対立する群雄を支援しました。

宇文化及が619年に滅ぶと、620年に唐軍は洛陽へ進軍、王世充・竇建徳を撃破します。かくて中原を制圧した唐の手により、624年までにほとんどの群雄は平定され、唐が天下を再統一します。突厥はしばしば南下して唐を脅かしますが、唐は突厥の諸部族をけしかけて離反・分裂を図りました。

626年6月、武帝李淵の次男である李世民は「玄武門の変」を起こし、自分を殺そうと計画していた皇太子である兄・建成と弟・元吉を逆に殺害し、父を脅して譲位させ皇帝に即位します。これが唐の太宗です。諡号は文武大聖大広孝皇帝ですが、長いので廟号である太宗で通常呼ばれます。

同年7月、突厥の頡利可汗は混乱に乗じて南下し、長安近郊の渭水北岸まで10余万騎の大軍で迫って脅しをかけます。太宗はわずか6騎で突厥軍の前に進み出て協約違反を攻め、突厥は恐れて立ち去ったといいますが、実際は唐から貢物を受け取って有利な条約を結び、兵を引いただけかも知れません。

太宗は翌年貞観と改元し、国内の諸制度を調えて天下を立て直します。突厥は薛延陀など諸部族が反乱を起こし、唐を攻めるどころではなくなりましたが、これは唐の分断工作かも知れません。突厥も隋唐も互いにニンジャを送り合い、情報戦を仕掛けあっていたわけです。

海東情勢

高句麗では618年に嬰陽王(高元)が薨去し、異母弟の栄留王(高成)が即位しています。彼は唐と国交を結び、隋の高句麗遠征の時の捕虜を交換し、624年には上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊立されています。

百済の武王も621年に唐へ朝貢し、624年には帯方郡王・百済王に冊立されました。また百済は626年に建国以来の仇敵であった高句麗と和親し、共通の敵である新羅と戦うことになりました。

新羅では真平王が健在でしたが、百済と戦って敗戦することが続き、624年には唐に朝貢して柱国・楽浪郡公・新羅王に冊立されました。高句麗は遼東を領有していますが、百済は帯方郡(ソウル)を、新羅は楽浪郡(平壌)を領有しておらず、三国を争わせようという思惑を感じなくもありません。

聖徳太子

『日本書紀』推古紀に戻ってみましょう。

推古21年(613年)11月、掖上池・畝傍池・和珥池を作り、難波から京(明日香)に至る大道を設置しました。河内とヤマトの間には古くから街道が存在し、海外諸国の使者を迎えるために立派な道を造ったようです。

12月、厩戸皇子(聖徳太子)は葛城の片岡山へ遊行した時、道の脇に倒れている人を見つけました。姓名を問うても答えず、飢えていたので飲食を与えた他、慈悲深くも自らの衣服を脱いで与え、歌を詠んで立ち去ります。翌日人をやって様子を見させると、飢えていた者は既に死んでいました。太子は大いに悲しみ、彼を埋葬させました。

しかし数日後に太子は「彼は凡人ではない、必ず真人(仙人)であろう」といい、気になって墓を開かせます。固く封印した墓でしたが、中に誰もおらず、太子が与えた衣だけがありました。人々は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と驚き、いよいよ太子を尊崇したといいます。ジーザスの復活めいた話ですが、これは太子を仏教・道教・儒教の聖人として神秘化するための説話で、もちろん史実ではありません。

聖徳太子虚構説は古くからあり、冠位十二階や十七条憲法は太子の作ではなく後世の造作だとか、蘇我馬子の功績を太子のものとしたとか(ある程度はそうでしょう)、果ては太子は蘇我馬子本人かその息子だったとかセンセーショナルな説も飛び出しています。大山誠一氏は「聖徳太子は日本書紀編纂時に作り出された架空の存在で、藤原不比等が厩戸皇子をもとに様々な虚構をくっつけたのだ」と主張しましたが、厩戸皇子がもともと有力な皇族でなければ神話伝説の主とはなりにくいでしょうし、日本書紀編纂以前からありがた話が法隆寺(斑鳩寺)で語り伝えられていても不思議ではありません。左右のアレはともかく、淡海三船によって後からつけられた漢風諡号で歴代天皇(大王)を呼ぶのが許されるのなら、聖徳太子も諡号として定着しているのですし、特に変えることもないんじゃないのとつのは思います。

推古22年(614年)5月にはまた薬猟をし、6月には犬上君御田鍬・矢田部造らを「大唐(隋)」に遣わします。隋では既に反乱が頻発しており、これが最後の遣隋使となりました。8月には大臣(蘇我馬子)が病気となり、ブッダに病気平癒を祈願して男女1000人を出家させています。

推古23年(615年)9月、犬上君御田鍬・矢田部造らが帰国し、百済の使者を連れてきました。隋の争乱や高句麗遠征の失敗も報告されたはずです。11月に百済の使者は饗応を受け、高句麗僧の慧慈は彼らに随伴してか帰国しています。彼は太子の師とされ、倭国の政治にも関わっていたようです。この時太子が著した『三経義疏』を持ち帰ったとも伝えられます。

推古24年(616年)には正月に桃や李(すもも)の実が成るという異常現象がありました。気候の異常か、なにかの兆しでしょうか。3月・5月・7月には掖玖人(屋久島の住人)が合わせて30人帰化し、朴井(えのい、岸和田市)に住まわせましたが、帰郷を待たずにみな死んでしまいました。気候が合わずに病気になったのでしょうか。7月には新羅が仏像を贈って来ます。

推古25年(617年)6月、出雲国から「神戸郡(出雲市)で瓶ほどもある大きな瓜が生った」というニュースが届きました。この年は幸いにも五穀がよく実り、気候も安定していたようです。

推古26年(618年)8月、高句麗が使者を送って土産を奉り、また「隋の煬帝が我が国を30万の大軍で攻めたが破られたので、その捕虜2名と鼓吹(軍の楽器)・弩のたぐい10種類・駱駝1頭を贈ります」と告げました。この頃には煬帝は江都で弑殺されていますから、612年からの一連の戦争での戦利品です。倭国は警戒して安芸国に人を遣わし、船を作らせました。

推古27年(619年)4月、近江国蒲生川に人めいた形の不思議なものが浮かんだと報告があり、7月には摂津の漁師が堀江(天満川)で網を打ったところ赤子か魚かわからないものがかかりました。不気味な話ですが、ひょっとして「人魚」と呼ばれるオオサンショウウオ(ハンザキ)でしょうか。

推古28年(620年)8月、掖玖人が今度は伊豆諸島に漂着しました。10月には欽明天皇と蘇我堅塩媛の合葬陵となった桧隈陵に細石を敷き、墓域の外に築山を作らせ、その上に柱を立てました。12月には天に赤気(彗星)が現れます。この年、太子と馬子は協議して『天皇記』『国記』及び諸臣諸国の記録を作りました。日本書紀から100年前の国史編纂です。

しかし推古29年(621年)2月、厩戸皇子は斑鳩宮で薨去しました(『上宮聖徳法王帝説』などでは推古30年、享年49歳)。天下の人々は嘆き悲しみ、高句麗に帰国していた慧慈もこれを聞いて斎会を催し、翌年の同日に死ぬと予言してそのようになったといいます。太子は磯長墓(しながのはか)に葬られましたが、これは大阪府太子町の叡福寺北古墳とされています。

推古天皇が予想外に長く天皇(大王)の位にあり、譲位するタイミングも逸したため、厩戸皇子が先に亡くなってしまいました。50歳近いので当時としては寿命でしょうが、蘇我氏の血を引く太子の薨去は馬子としては困ってしまいます。幸い太子には山背大兄皇子という男子(母は馬子の娘)がいますし、誰か中継ぎをまた立てるか、彼を即位させれば済むことです。

新羅の使

この頃、新羅は上述のように百済や高句麗との争いが激しくなり、図体が大きくなったぶん戦線も広がり、戦いでは不利になることが多くなりました。そのためか倭国との関係修復につとめ、推古29年(621年)には初めて書を奉って使いの旨を奏上するようになりました。

推古31年(623年)7月にも新羅から使者が訪れ、仏像・金塔・仏舎利・勧請幡を奉りました。このうち仏像は蜂岡寺、その他は四天王寺に納められました。この時、新羅使に随行して唐の学問僧や医者が倭国にやってきました。彼らは隋ではなく実際に唐の人で、倭国からの留学生らの消息を伝え、「大唐は立派な国だから往来して交わりを持つのがよろしい」と言いました。

この年、新羅が「任那を討って我がものとした」ため、天皇は群臣に新羅討伐計画を相談しました。「使者を送って様子を見てから」「新羅を討って百済に任那を与えよう」「否、百済は嘘つきだから任那を与えてはならぬ」といった各派による議論の末、新羅と任那に使者を送って調査することにしました。新羅の王は「ご安心下さい」と答え、新羅と任那の両国の調(貢物)を使者と共に贈りました。

しかし倭国では境部臣雄摩侶らを大将軍として数万の兵を率いさせ、筑紫から新羅へ出兵させました。使者と新羅は驚き恐れ、倭国に降伏したものの、新羅の朝貢使は引き返してしまいます。馬子は報告を聞き嘆息しましたが、その後は新羅と任那の船が連れ立って来るようになったと言います。とはいえ任那はとっくに滅んでいますから事実らしくはなく、新羅から任那のぶんも朝貢船が来るようになった理由を伝説化したものでしょう。この年には春から秋まで長雨が降り、洪水が起きて、五穀はよく稔りませんでした。

僧正任命

推古32年(624年)4月、僧が斧で祖父を打つという事件があり、これを機会に僧尼の犯罪を調べて処罰しようとしました。この時百済僧の観勒は「まだこの国に仏法が伝わって100年にもならないのですから、悪逆の行為があった者の他は許して帰されますよう」と上奏し、天皇は彼を僧正(仏教の教団を監督する僧官)に任命しました。また鞍部徳積を僧都とし、阿曇連を法頭として僧侶や尼僧を監督させました。9月に調査したところ、寺は46、僧は816人、尼は569人、合わせて1385人の出家者がいたといいます。

馬子薨去

同年10月、馬子は「父祖の地である葛城県を賜って食邑としたい」と天皇に上奏しますが、天皇は「朕は母が蘇我氏の娘で、馬子大臣は叔父であり、言うことは何でも聞き入れて来た。しかし県をねだられて与えることは、後世に朕ばかりか大臣の不名誉にもなるのでならぬ」と答えました。

推古33年(625年)正月、高句麗王が僧の恵灌を奉り、僧正としました(僧正となったのは孝徳天皇の時とも)。彼は三論宗の祖とされ、法興寺(元興寺、飛鳥寺)に住しました。

推古34年(626年)も天候不順で、正月に桃や李の花が咲き、3月には霜が降り、6月に雪が降り、3月から7月まで長雨が降って飢饉が起き、盗賊がはびこるという有様でした。こうした中、5月に蘇我馬子が薨去します。550年生まれとすると77歳もの長寿で、子の蘇我蝦夷が跡を継ぎました。

彼が葬られた「桃原墓」とは、明日香村の石舞台古墳であるとする説が有力です。今は横穴式石室の石組みだけが残っていますが、墳丘の盛土が完全に失われているためで、復元すると方50mの方墳の周囲に方80mの外堤を巡らした巨大な墳墓であったようです。

推古崩御

推古35年(627年)には怪現象が記録されています。2月には陸奥国でムジナが人に化けて歌を詠み、5月にはハエが無数に集まって10丈(30m)もの高さになり、雷めいた羽音をたてて東へ指して大空を飛び、信濃の坂を越えて上野国で散り失せました。ムジナはともかくハエは明らかに凶兆です。

果たして推古36年(628年)2月末、天皇は病臥し、3月2日は皆既日食が起こります。3月6日には危篤となり、敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の子にあたる田村皇子を後継者に指名しました。彼は父方でも母方でも蘇我氏の血を引いていませんでしたが、推古天皇が即位した593年に生まれたため年齢は36歳で、不足はありません。厩戸皇子の子・山背大兄皇子はまだ若く、推古は彼に「もし心中に望むことがあっても群臣に従え」と遺言しました。

3月7日、推古天皇は75歳の高齢で崩御しました。朝廷の中庭に殯宮が設置されて遺体が安置されましたが、この年も天候不順で、4月に桃や李の実ほどの雹が降り、春から夏まで旱魃が続きました。

9月21日に喪礼を行い、24日に埋葬しました。天皇は「この頃は五穀が稔らず、百姓は大いに飢えているから、陵を建てて厚く葬らなくてよい。竹田皇子の陵に合葬すればよい」と遺言してもいます。竹田皇子は彼女と敏達天皇の息子で早世したため、あの世では一緒に過ごしたかったのでしょう。これが磯長山田陵で、宮内庁は山田高塚古墳に治定しています。

ただ『古事記』では「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」とあり、改葬前の大野岡上の陵は橿原市の植山古墳ではないかとも言われます。また大阪府太子町の二子塚古墳が真の合葬陵であるとも言います。

◆天◆

◆子◆

こうして、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇の三人は相次いで世を去ります。時にチャイナでは隋に代わって唐が興り、天下を統一したばかりです。両国の関係はどのようになっていくのでしょうか。

【続く】

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