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【つの版】倭の五王への道21・大悪天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭の五王編の締めくくりとして、『日本書紀』雄略紀をざっくり見てみましょう。安康天皇を弑した眉輪王らを滅ぼした後、大泊瀬皇子は泊瀬朝倉宮で即位しました。年代記に空白はありませんが、最初からやたら殺伐で陰惨としており、編纂者が雄略や天皇になんらかの悪意を持っていたのではと疑わしくなるレベルです。皇国史観ではこのへんどうしてるのでしょうか。

◆大◆

◆悪◆

大悪天皇

日本書紀巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_14.html

雄略天皇の宮は泊瀬朝倉宮で、奈良県桜井市の三輪山南麓、初瀬の長谷の入口である脇本・黒崎のあたりです。脇本遺跡は5世紀後半から営まれた宮殿跡で、考古学的にも泊瀬朝倉宮跡と推定されます。すぐ南に雄略の母のいる忍坂があります。6世紀には欽明天皇が行宮(泊瀬柴垣宮)としました。

雄略元年、草香幡梭姫を皇后とします。さらに三人の妃を立てました。葛城円大臣の娘の韓媛は次代の清寧天皇らを生み、吉備上道臣の娘の稚媛は磐城皇子と星川稚宮皇子を、春日和珥臣深目の娘の童女君は春日大娘皇女を生みました。稚媛が妃となったいきさつは後で述べられます。

童女君は一夜しか天皇の閨に侍らず妊娠したため、天皇は春日大娘皇女を自分の子ではあるまいと怪しんで育てませんでした。のち物部目大連が「一夜に何回呼ばれましたか」と問うと「七回」と答えました。大連は呆れて「疑うまでもないでしょう」と答え、皇女は認知されたといいます。彼女はのちに仁賢天皇の皇后となり、継体天皇の皇后や武烈天皇を生みました。血筋に疑わしいところがあると噂があったので強調したのでしょうか。

雄略2年、さっそく百済の記事があります。宮中にいた百済の池津媛が石河楯と姦通したため、天皇は怒って二人の四肢を木に縛り付け、焼き殺しました。やたら火が好きな人です。この記事に引く『百済新撰』という書によると、「己巳(429年、乙未=455年か)に蓋鹵王が立つと、天皇は阿禮奴跪を遣わして女郎を求めさせた。百済は慕尼夫人の娘適稽女郎を着飾らせ、天皇に貢進した」とあるそうです。これに関連して、雄略5年4月に前回記した昆支王の渡来と武寧王の誕生伝説があります。

同年10月には吉野へ遊猟に出て多くの獲物を得ましたが、群臣に「料理人に調理してもらうのと自分で調理するのとどっちがいい?」と聞いたところ、誰も返事しなかったので怒って御者を斬り殺しました。皇太后の忍坂大中姫が「私が良い料理人を知っています」と膳臣長野らを推薦すると、長野は獲物を宍膾(ししなます、ユッケ)にして献じ、これを食べた天皇は機嫌を直して、宍人部(ししひとべ)という肉を調理する職能組織を置きました。

これは宍人部の起源譚ですが、天皇はあまりに簡単に人を誤って殺すので、天下は誹謗して「大悪天皇」と呼んだといいます。雄略3年条は、天皇と韓媛の娘で斎宮であった稚足姫皇女が、姦通の冤罪を着せられ自害した陰惨な話です。妊娠したとの疑いをかけられていたので遺体の腹を割きましたが、中に誰もいませんでした。冤罪を着せた人物は後で因果応報します。

雄略4年2月、天皇は葛城山で遊猟しましたが、天皇と良く似た背の高い人が現れて互いに挨拶しました。彼は「一言主神である」と名乗り、両者は仲良く一緒に猟をして別れました。この事を人々は「有徳天皇」と讃えたといいます。712年編纂の『古事記』では天皇が恐れ入って弓矢や衣服を神に捧げたとありますが、720年の『日本書紀』では対等扱いで、797年の『続日本紀』では天皇は怒って神を土佐国へ流したとあります。これは一言主を祀る葛城鴨(賀茂)氏の現世での権力が段々衰退したためで、822年の『日本霊異記』では役行者に使役されるまで落ちぶれています。

雄略は遊猟を好んでおり、同年8月には再び吉野へ赴き、翌5年2月には再び葛城山へ赴いています。この時にわかに猪が飛び出し、従者に「射よ」と命じますが、従者は恐れて樹にしがみつきます。猪は天皇めがけて突進してきたので、やむなく天皇は弓を突き刺して止め、脚を挙げて踏み殺します。そして従者を斬り殺そうとしますが、従者は哀れげに歌を詠み、皇后が諌めて処刑をやめさせます。前年に続いて平和な日常回でしたね。

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少子部蜾蠃

雄略6年2月には泊瀬小野で歌を詠みました。3月には養蚕のため蜾蠃(すがる)という人に(こ)を集めさせましたが、蜾蠃は間違えて嬰兒(こ)を集めて来ました。天皇は大笑いして「お前が養え」といい、子供を養育する職能集団「少子部(ちいさこべ)」を設置しました。蚕を「かいこ」と読むのは「飼い蚕」の意で、飼育されていない野生の蚕は野蚕といいます。

翌年、天皇は蜾蠃に「三諸山(三輪山)の神の姿が見たい。お前は怪力だから捕まえてこい」と命じます。蜾蠃は山に登って大蛇を捕らえ、天皇に示しますが、目がギラギラ光って恐ろしかったのでさしもの天皇も畏れて見ようとせず、山に戻させたといいます。雷神を捕らえたとの伝説もあり、『新撰姓氏録』には隼人を率いて秦氏を集めたといい、謎の多い人物です。

なお蜾蠃とは「巣借る」の意でジガバチを意味し、「子育てをするハチ」とみなされていたようですが、実際は毒針で麻痺させた青虫を巣穴に入れて卵を産み付け、孵化した幼虫の餌にする恐るべき狩りバチです。

吉備の乱

雄略7年(463年)8月、天皇に仕えていた吉備弓削部虚空(ゆげべのおほそら)が、急に故郷吉備へ帰国しました。吉備の豪族吉備下道臣前津屋(さきつや)は彼を数ヶ月留め置き、天皇が使者を遣わして呼び戻したところ、前津屋が不穏な行動をして天皇を侮辱していると告げられます。天皇は怒って吉備へ兵士を派遣し、前津屋と一族70人を皆殺しにしました。

同年には吉備上道臣田狹を任那へ遣わし(あるいは殺し)、彼の妻稚媛を我が者とします。田狹は怒って新羅・百済と手を組み反乱を起こしますが失敗し、行方知れずになったといいます。この「吉備氏の乱」は異説が多く実態がはっきりしませんが、田狹の妻は葛城氏出身で、吉備と葛城が組んでいたのかも知れません。瀬戸内を抑える最も有力な地方豪族であった吉備氏を制圧することで、倭王の権力は高まったことでしょう。吉備氏が滅んだわけではなく、この後も豪族や将軍としてしばしば登場します。

5世紀前半、吉備には墳丘長350mもの大王級古墳・造山古墳が出現しています。大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳に次ぐ全国4位の規模で、吉備には倭王にも匹敵する権力が存在したのです。ヤマト・弁韓と結んで豊国や三韓に進出したのも吉備ですし、吉備なくして倭王権は成り立たなかったでしょうが、あまりに増長したため叩かれたのです。ただし吉備は上道・下道など複数の氏族の連合体で、そこを突かれ分断されました。

海外に関する記事

雄略8年(464年)、次の事件がありました。新羅は雄略天皇の即位以来朝貢をやめて高句麗とよしみを通じ、高句麗王は精兵100人を遣わして新羅に駐留させていましたが、実は新羅を攻め取るつもりでした。新羅王はこれを知ると国内の高句麗人を皆殺しにしますが、高句麗王は出兵して新羅に攻め込んで来ます。新羅王は「任那王」に使いをやって「日本府行軍元帥」らに救援を求めるよう要請しました。そこで任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らと共に出兵し、高句麗軍を打ち払って新羅を救出しました。

この「任那日本府」に関しては様々な議論がありますが、日本という国号が現れるのは7世紀後半ですから、この時にあったとしても「倭府」だと思います(日本書紀は神代から「日本」と書いてヤマトと読ませます)。全羅南道には倭国から伝わった前方後円墳(5世紀後半から6世紀前半)が存在するぐらいですから、倭国の拠点や在韓倭人の居住地は当然存在したでしょう。

雄略9年(465年)2月、河内直香賜と采女を遣わして胸形神を祀らせましたが、香賜が采女と姦通したので誅殺します。3月には自ら新羅を討伐しようと思いましたが、神託によりとりやめ、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らを遣わして新羅を討伐させました。小弓が「私は妻をなくしたばかりなので後妻が欲しい」と泣き言を言うと、天皇は哀れんで吉備上道采女大海を賜ります。小弓は奮戦して敵将を斬り、新羅を征服しますが、残党の襲撃に遭って大伴談らが戦死し、小弓も病死します。

5月に小弓の子の大磐が派遣されますが、小鹿火や韓子と指揮権を争い、韓子は大磐に殺されます。小鹿火は帰国しますが角国(周防国都濃郡)に留まり、大磐だけが戻って来ました。よくわかりませんが、角国の豪族の起源譚です。『三国史記』にもこの頃に新羅が倭人と戦った記録はあります。

倭人と韓人の混血者は「韓子(からこ)」と呼ばれていましたが、父が韓人なら韓人とされますから、韓子は父が倭人で母が韓人の混血者です。継体紀に「大日本人娶蕃女所生爲韓子也」とあります。

雄略6年4月には呉国から遣使朝貢があったといいますが、劉宋大明6年(462年)の倭王興への除授のことでしょうか。2年後の雄略8年2月、呉国へ遣使します。雄略10年9月、呉国に派遣された身狭村主青らは2羽のガチョウを連れて筑紫に戻りましたが、水間君の飼い犬がガチョウを噛み殺しました。水間君はおわびにコウノトリ10羽と飼育員を献上し、罪を許されました。雄略11年にも鳥に関するいざこざがあり、一連の話になっています。雄略12年にはまた青らを呉へ派遣し、青は雄略14年に機織女らを連れ帰りました。

播磨と伊勢の平定

雄略13年(469年)8月には播磨国の御井隈の人である文石小麻呂(あやしの・をまろ)を討伐します。彼は力が強く暴虐で、陸海の通行を妨げ、租税を納めない賊徒でした。天皇が遣わした春日小野臣大樹が、その家を包囲して火を放ったところ、火炎の中から馬ほどもある白い犬が暴れ出て大樹に襲いかかりました。大樹は慌てず刀で斬りつけると、犬は文石小麻呂の姿になったといいます。人狼だったのでしょうか。

雄略18年(474年)8月、物部菟代宿禰(うしろすくね)と物部目連(めのむらじ)を伊勢に遣わし、朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐させました。彼は強弓の達人で、その矢は甲冑を重ね着しても貫通したので、官軍はみな恐れました。菟代宿禰は進撃できませんでしたが、目連は自ら大刀をとり、筑紫の物部大斧手(おほおのて)に楯を持たせて突進します。朝日郎が遥かに眺めて弓を射ると、矢は大斧手の楯と二重の装甲を貫通し、生身の肉に一寸入りました。しかし筋肉の鎧により大斧手は死なず、楯をかざして突撃し、目連が駆け寄って朝日郎を斬り殺しました。タンク役は大事ですね。これで吉備・播磨・伊勢にヤマトの大王の勢力が広がったわけです。

そして、雄略紀20年から23年にかけて百済の滅亡と復興に関する事件があり(前回触れました)、雄略23年(479年)8月に崩御します。

陵墓

陵は清寧紀に丹比高鷲原陵とあり、宮内庁により大阪府羽曳野市の島泉丸山古墳(5世紀後半の円墳、径75m)に治定されますが、隣接する島泉平塚古墳(方50mの方墳)と合わせて「前方後円墳だ」とされ、甚だ疑わしいものです。また松原市西大塚の河内大塚山古墳(墳丘長335m)も陵墓参考地とされますが、6世紀後半の古墳なので雄略の年代と合いません。

現在「仲哀天皇陵」とされている岡ミサンザイ古墳は、5世紀末の築造で墳丘長245mとそこそこ大きく、江田船山古墳と同じく横穴式石室を持つことから雄略の陵であるとする説が有力です。この横穴式石室は高句麗に起源を持ち、百済や弁韓を介して倭地に伝わったもののようです。古墳の巨大化はおさまり、6世紀末には前方後円墳の築造も終わっていきました。

雄略紀はこんな感じで、部(職能集団)の起源譚や歌物語、怪異譚やチャイナの古典からの引用が多く、あんまり現実的な歴史記録ではありません。吉備・播磨・伊勢の豪族を制圧し、高句麗や新羅と戦い、百済の復興に関わったかも知れない、ということはぼんやりとわかります。

ついでに、その後も見ていきましょう。チャイナの史書では479年から600年まで倭国の記述が途絶えるため、日本書紀を参考します。

清寧から継体まで

雄略天皇が崩御すると、吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵(国庫)を占領して皇位を得ようとしました。大伴室屋と東漢掬直(都加使主)は先帝の遺詔を奉じて大蔵を取り囲み、火を放って星川皇子と吉備派の豪族たちを焼き殺します。この反乱は吉備本国と連携しており、吉備上道臣が軍船40隻を率いて加勢に動いたほどですが、皇子が死んだと聞いて帰還しました。

事態が収まると、大伴室屋らは皇太子である白髪皇子に神器を奉り、彼が即位しました(清寧天皇)。宮は磐余甕栗宮(橿原市東池尻町)です。しかし彼は子がなく、在位5年で崩御します。允恭天皇の皇統は断絶しました。

跡を継いだのは、履中天皇の孫という億計(オケ)皇子と弘計(ヲケ)皇子です。父である市辺押磐皇子が雄略天皇に殺された後、二人は丹波を経て播磨に逃れ、名を変えて牛馬の飼育人に身をやつしていましたが、清寧天皇が即位すると宴席で身分を明かします。喜んだ清寧天皇は父の従兄弟の子(はとこ、再従兄弟)にあたる彼らを跡継ぎに迎えました。

清寧の崩御後、兄弟は皇位を譲り合って一時姉の飯豊青皇女が摂政となり、結局弟の弘計が先に即位しました(顕宗天皇)。宮は近飛鳥宮です。顕宗天皇は在位3年で崩御し、兄の億計が即位します(仁賢天皇)。宮は石上広高宮です。仁賢天皇が在位11年で崩御すると、皇太子の小泊瀬稚鷦鷯(ヲハツセ・ワカサザキ)尊が即位しました(武烈天皇)。彼は雄略天皇の娘を母とし、泊瀬列城宮(桜井市出雲)に宮居しました。彼は雄略に輪をかけて悪逆非道で、在位8年にして跡継ぎもなく崩御します。

応神―仁徳―履中―押磐―仁賢―武烈
      反正    顕宗
      允恭―安康
         雄略―清寧

ここに仁徳天皇からの皇統は途絶えますが、大伴金村・物部麁鹿火らが越前から「応神天皇の5世孫」である男大迹(ヲホド)王を推戴して、皇位につけました。これが継体天皇です。世代上は武烈と同世代になります。

応神―稚野毛二派皇子―意富富杼王―乎非王―彦主人王―継体

年数を計算すると、雄略崩御が西暦479年として、清寧が5年(480-484)、顕宗が3年(485-487)、仁賢が11年(488-498)、武烈が8年(499-506)ですから、5+3+11+8=27年経過しています。

記紀では武烈天皇以外は麗しい物語に仕立ててありますが、出自の怪しい傍系の天皇(倭王、大王)が30年近くも続いたわけで、実態は相当な混乱期だったでしょう。「皇位を譲り合う」は仁徳と菟道稚郎子と同じく「皇位を争う」の隠語みたいなものですし、武烈がやたらとチャイナの暴君(夏の桀王や殷の紂王)みたいな暴虐をしたというのも、継体の即位を正統化・正当化するための前フリです。雄略天皇もこのせいで必要以上に悪者として描かれている可能性はあります(敵対者を粛清はしたでしょうが)。

この頃チャイナで即位した梁の武帝も、自分が弑殺した南斉の皇帝蕭宝巻をやたらと史書でこき下ろしています。前の政権を倒して成立した新政権が、いかに前政権が悪逆非道だったかをプロパガンダするのは世の常です。

このように皇統の継続が怪しい時期なので、応神ないし仁徳から清寧までを河内王朝、顕宗から武烈までを播磨王朝、継体以後を越前王朝と呼ぶこともあります。継体以後は現代まで一応繋がっていますが、継体と河内・播磨との繋がりは薄く、前漢と後漢ぐらいには違います。まあ完全に無関係の血統だったなら担ぎ出す大義名分にもなりませんし、繋がりはあるのでしょう。継体も薄さを気にはしており、武烈の妹の手白香皇女を皇后としています。

◆I watched with glee while your kings and queens◆

◆Fought for ten decades for the Gods they made◆

さて、このように倭国の王権が動揺している間、チャイナや朝鮮半島はどうしていたでしょうか。次回から「倭国から日本へ」と名を変えて続きます。

【続く】

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