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「胡漢英雄記」序章「胡雛長嘯」(全セクション版)

「ルィイイウィ……イイイイ……ウィイイィ……」

洛陽の上東門。埃っぽい雑鬧を横目に、少年が門柱に倚りかかり、嘯いている。
年の頃は十代半ば。深目隆鼻の胡(えびす)である。まわりの大人も、みな胡。老いた門衛も懐かしそうに目を細めている。

「これ、バイよ。騒ぐでない」
叱られ、少年は喉歌をやめる。生意気そうに、ふん、と鼻を鳴らす。
「おじさん、いつもより人通りが激しいのは、なんでだい……」
「帝がお隠れなすったとよ……」
「ふぅん。羊、売れっかなァ……売れねば、おやじがまた怒る」
胡語で話す者も、ここ洛陽には珍しくない。奴隷から将軍まで様々だ。晋人は見下すが、胡にも誇りはある。

晋の太熙元年夏四月、皇帝が崩御し、太子が立って永熙と改元した。

ガラガラガラガラ……。貴人の馬車が、また一台。従者らが胡らを追い払い、跪かせる。バイは脇へ避け、門柱に隠れ、密かに喉歌を歌う。

「ルィイイウィ……イイイイ……ウィイイィ……」

「ルィイイウィ……イイイイ……ウィイイィ……」

バイの喉歌が、車中の貴人の耳に届く。
「停めよ」
門前で馬車が止まり、貴人が外を見る。年の頃三十路。神情は明秀、風姿は詳雅。だが肌は病的に白く、手に持つ払塵の白玉の柄と等しい。五石散を服用し、白粉を塗っているのだ。澱んだ目の下には隠しきれぬ隈。

「嘯いておるのは誰かな。連れて参れ」

命令を受け、従者らが手に棒を携えて声のもとへ走る。「曲者!」「えびすめが!」バイは身をかわし、嘯きながら柱を登って門の上へ。貴人はますますおもしろがり、車をふらりと降りて門の上を見上げる。野次馬が増える。

「バイ! 貴人様に謝れ! わしらの首も飛ぶぞ!」
胡の老人が漢語で叫び、バイが顔を出して貴人を見下ろす。バイにも漢語は少しわかる。貴人は鷹揚に微笑む。
「そなたか」
「さようで、貴人様。ごめんなさい。僕の首は差し上げませんし、そこの胡らも勘弁してやって下さい」
「処罰はせぬ。喉歌のもとを見たかっただけだ。問う、何処の誰某かな」

バイは悪びれもせず、堂々と応える。
「僕はバイです。上党郡武郷北原、羯室の小帥、周曷朱の子。貴人様、お名前は」
「こ、こりゃ!」
「はははは。姓は王、字(あざな)は夷甫。琅邪の出で、平北将軍の子だ」

胡らは青褪め、野次馬も驚く。王夷甫、名を。竹林の七賢のひとり王戎の従弟。清談の第一人者。玄理と老荘を論じ、自らを子貢になぞらえ、一世龍門と讃えられる男。性は派手で気まま、言葉を弄ぶこと口中に雌黄を含むが如く、空論を好み俗事を疎かにする奇人。彼とバイとの問答が始まった。

「なぜ歌っておった?」「歌いたかったもので」
「わしに聴かせたかったのかな?」「そうかも知れず」
「年はいくつだ」「十四」
「そうか。わしが十四の頃と言えば、羊公に書状を送ったことが…」

バイと王衍は、漢語と胡語を交えつつ、スラスラと対話していく。市場で互いを値踏みするように。
「ところで貴人様、羊を買って下さい」「おお、買ってやろう。そなたの身柄も買い受けよう」「そちらは売り物じゃありませんので、売れません」「売らぬとあらば、この胡らを買うぞ」「僕のものじゃありません。胡らに聞いて下さい」「それもそうじゃ!」

王衍は従者に銭を出させ、胡らの売り物を皆買い取る。身柄は買い取らず、放免してやる。胡らはバイに促され、そそくさと逃げ去った。
「バイよ、そこから降りてこい。わしの馬車に乗って、語らおう!」
「ご遠慮いたします。おさらば!」
バイは乗らず、門の上からひらり。とんぼを切って飛び降り、ぺこりと一礼するや、風のように駆け去った。群衆は呆然とし、顔を見合わす。
王衍は鼻を鳴らし、真顔で呟く。

「あの胡のひよっこめは、ただ者でないぞ。いずれ天下の患いとなろう」

「おやじ、戻ったよ。酒だ」
「おう、早かったな。寄越せ。銭もだ」

并州武郷北原、羯室。バイの父・周曷朱は部落の小帥だが、性格が粗暴で、人望がない。貧乏なのに酒ばかり飲んでいる。それでも奴隷になるよりはマシだ。漢が魏に、魏が晋に代わって、漢人は…晋人は、胡人をますます見下すようになった。かつては漢が胡にへいこらしていたのに。

「皇帝が死んだってな」
「うん。新しい皇帝はばかだって、子供でも知ってる。乱世になるかもな」
「けっ。担いでるやつは、ばかか」
「知らない。でも、恨みや妬みは買ってるね。……あとおれさ、洛陽で晋の貴人と話したよ。ほんとさ。おれと一緒に行った連中に聞いてみなよ」
「ばかこけ。酒でも買ってこい。あいつらまだ帰って来てねえぞ」

どやされ、バイは家の外へ出る。鼻を鳴らす。おやじは覇気がない。
乱世になれば、のし上がれる。老人や講談師からよく聞いた。そうすりゃ、こんな貧乏暮らしともおさらばだ。

「ああ、盗んだ馬、いくらで売るかなァ……」

永熙元年。晋の都、洛陽。先帝司馬炎は「武」と諡され、廟号は世祖とされた。五月、峻陽陵に埋葬された。暗愚な皇帝司馬衷を傀儡として朝政を牛耳るのは、皇帝の外祖父である楊駿。彼は太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられ、全権を掌握した。

己が人望のないことを知る楊駿は、群臣の爵位を進め、租税を免除して人心を得ようと目論んだ。その策のひとつが――――

「匈奴北部都尉の劉淵を、建威将軍、五部大都督に任じ、漢光郷侯に封ず」

巨きな体、長い腕とひげ。威風周りを圧する男が、愚帝に拝礼した。

劉淵、あざなを元海。匈奴王族は漢家との長い通婚関係により、漢姓を劉とする。ふたつの皇室の混血者だ。楊駿や曹操、司馬懿とは、その血統の高貴さ、歴史の重さは比べようもない。姓も持たぬバイとは雲泥の差だ。

歳はじき四十。文武両道にすぐれ、膂力形貌は常にあらず。十三歳より任子として洛陽におり、貴顕より評価されたが、それゆえに危険視され、長く用いられることはなかった。やがて父・劉豹の跡を継いで匈奴左部都督(帥)に任じられ、故郷に帰るや刑法を明らかにし、姦邪を禁じ、施しと誠心で人を集めた。胡も漢人も、競って彼のもとに集った。

太康末年(289年)、劉淵は北部都尉に任命された。その翌年の、これだ。匈奴は五部に分かれるが、それを統率する五部大都督となった。長く不在の単于に代わり、劉淵が事実上の単于となったのである。

外戚として愚帝を担ぐ楊駿。漢の名門・弘農楊氏に属するが、人望はない。爵位や官位をばら撒き、租税を免除するなどして人気取りをはかっても、人心を集めることはできぬ。権門ゆえに集まるだけだ。曹操や董卓、司馬懿のような功績もない。小心で猜疑心がつよい。王莽を小型にしたような男だ。

直言が怒りに触れても、楊駿は殺しはせぬ。遠ざけるだけだ。それは美徳ではあるが、小心ゆえでもある。人はそのために彼を畏れず、侮る。

「いよいよ、晋家の命運も」「まだだ。時を待て。楊駿の弟らは侮れぬ」

楊珧楊済。先帝以来、兄と共に権勢を恣にし、「天下三楊」と呼ばれる。済は兵馬を長く管轄して施しを好み、人望がある。珧はしばしば皇帝に諫言し、早くから劉淵の才覚と異心を認めてきた。楊駿と共に彼らが滅びるならば、晋家の命運は危なかろう。兆しはいくつもある。許昌には汝南王、宮中には賈皇后。どちらかが、まずは政権を握るであろう。その後は…。

「王彰が官位を辞退したそうな」「楊駿から『司馬』に任じられるのも…」「はは、そうだな。余は有り難く受け取っておくぞ」

劉淵と密談する老人は、同族の劉宣。匈奴右部都督である。かつて毛詩・左伝を学び、帰郷すると漢書の蕭何伝・鄧禹伝を繰り返し音読して、彼らに憧れていたという。劉淵の右腕として部族を取りまとめ、いずれは天下を、との志がある。胡が漢を征服するのではない。漢を再び建てるのだ、と。

「バイよ。匈奴の五部大都督様を、知っているか」「はい。噂には聞いています。雲の上の御方ですが」

赤銅色の肌に筋肉が盛り上がり、汗が噴き出す。畑を耕すバイに、畑の主人が畦道に座り、話しかけた。太原郡鄔県の人、郭敬。あざなは季子。陽曲県の甯駆と共に、バイを気に入って支援してくれる漢人だ。バイは報恩のため彼らの畑を耕している。飲食や銭も出る。武郷からの道は遠いが、働き甲斐はある。色を売っているわけではないから別によかろう。口さがないやつには言わせておく。

郭は手酌で酒を飲みながら、立ったままのバイと対話する。バイよりは年上なだけでまだ若いが、鬱屈を晴らしたいようだ。

「おれは会った。彼は龍だ。一世の英傑だ。おまえは彼に仕えるがよいぞ」「場合によります。大都督様は晋の臣。郭公もおれも晋の民です」「いまの晋は、楊駿の私物だ。乱世は近い」「郭公は乱を好むのですか」

ぐい、と郭は盃を干し、また手酌で注ぐ。

「好まぬが、世が変わることを望む。良い方にな。乱なくして、いまの世は変わらぬ」「晋が滅んでもですか」「魏は漢にかわってから五十年の命もなかった。晋がそうならぬとは限らぬ」「漢は四百年も続いたそうですが」

ふん、と郭は鼻を鳴らし、指で地面をいじる。

「漢家は王莽によって途絶し、光武帝が中興した。名目はともかく別物だ。蜀漢も滅び、漢の命は尽きた。だがな」

郭はふらりと立ち上がり、笑ってバイに盃を差し出す。酒が半分ほど入った盃の底に、土が少し入れてある。嫌がらせではない。

「五部大都督様の姓は劉氏で、漢光郷侯だ。は前業を紹(つ)ぐことをいう。彼は漢を再興するであろう。さあ、飲め!」「頂きます」

恭しく拝し、ぐっ、とバイは盃を干す。土も共に飲む。どこかで聞いたが、これはこの土地をくれるということだ。酒の上でも吉祥だ。

「でも劉氏と言っても、匈奴ですよ。胡が漢を光(つ)ぐなんて……」

盃と共に返ってきたバイの答えに、郭はカラカラと笑う。

「おもしろいではないか。秦や周は西戎、商は北狄、夏は東夷だ。漢人など蛮夷の寄せ集めよ。この并州、晋地は、夏と胡が混ざり合って来た地だぞ。晋の文公の母は白狄、妻は赤狄ではないか。胡が漢を光いで不思議はない」

バイは頷く。甯駆、李川、この郭敬。漢人の中にもこういう者がいるのだ。郭は上機嫌で盃を掲げる。「さあ、歌えい!対酒当歌だ!王夷甫どのに聞かせたという、喉歌を!」「はは、しからば一節。ルウィイイイ……」

永煕改め、永平元年。賈皇后と楊駿の対立は続き、正月に動いた。楊駿は甥の段広を散騎常侍に任じて宮中の機密を管理させ、側近の張劭を中護軍に任じて禁兵を統率させた。さらに全ての詔勅を、楊駿の娘たる楊皇太后が内容確認してから発布すると定めた。太傅・大都督となり仮黄鉞を下賜された楊駿の専断を止めることは、法律上は誰にもできない。輿論は沸騰した。

「社稷を傾けんとしていることは明らかだ!」「晋家を救え!」

賈皇后にも人望はなく、嫉妬深くて猜疑心がつよいことは楊駿よりひどい。輿望は許昌の汝南王に注がれる。荊州には楚王が、揚州には淮南王がいる。彼らは武力で宮中を鎮めることができよう。誰がどちらに味方するか。

「楚王と淮南王が入朝を求めております。太傅様にお味方したいと…」

夜。家奴のしらせに、楊駿は憔悴した顔に喜色をあらわす。兵が来た。皇后派を粛清し、返す刀で軍権をとりあげれば……。と、家奴がもうひとり。

「門前に、隠者の孫登なる者が来ております。お伝えしたいことがあると」

訝しんだ楊駿が門前に出てみると、ボロ布をまとった怪しき男がいる。丸腰だが、暗殺者か。ならば、こう堂々とはしていまい。皇后暗殺を請け負いたいとでも言うか。だがかような者を使えば、輿論がうるさい。

「隠士殿、何事かな。ここで承ろう」

衛兵に前後左右を護らせ、楊駿が距離をとって尋ねる。孫登は無言。ばさりとボロ布をぬぎ、宙へ投げた。そして衛兵にすばやく近づくと、腰の刀を抜き取る。「!」彼は地を蹴って跳躍し、空中で布を上下、左右、斜めに幾度も切り裂いた。闇に刀が閃き、ひらひらと布切れが舞い落ちる。

気がつけば、孫登はいない。抜かれた刀も腰に戻っている。幻術か。楊駿は首を傾げ、邸内へ戻る。狂人か、芸人か。否。

地面に舞い落ちた布切れは、兆しであった。天下はこのように乱れよう。

永平元年三月。賈皇后は楚王・淮南王と結託し、宮中の兵を挙げて楊駿を誅殺。三族は皆殺しとなり、皇太后も庶人に落とされて監禁、殺害された。楊氏に与したとみなされた者も多くが殺された。さらに賈皇后は楚王を用いて汝南王らを除き、続いて楚王をも排除した。

意外にも賈皇后は賢臣に政事を委ね、数年の間は平穏であった。だが恨みは積まれ、火種は残された。乱世は近い。皆がそれを感じていた。

【序章終わり】

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