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【つの版】ユダヤの闇05・東欧騒乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西欧ではプロテスタントとカトリックの対立で肩身が狭く、改宗しても怪しまれたユダヤ人でしたが、ヴェネツィアとポーランドとオスマン帝国では一定の権利が保証され、それなりに繁栄しています。特にポーランドでは貴族と農民の間にあって様々な特権を享受し、この国は「ユダヤ人の楽園」と呼ばれました。今回はポーランドにおけるユダヤ人の様子を見てみましょう。

◆Rzeczpospolita◆

◆Polska◆

波蘭拡大

ポーランドは9世紀に西スラヴ系のレフ族が中核となって形成された国で、966年にミェシュコ1世がカトリックに改宗しました。これは神聖ローマ帝国(ドイツ)の侵攻を防ぐためローマ教皇から直接承認されたもので、ザクセン系でなくバイエルン系の聖職者から洗礼を受けています。またボヘミアと同盟して神聖ローマ帝国と渡り合い、ミェシュコの子ボレスワフはさらに領土を広げますが、やがて内紛によって王国は分裂します。

14世紀になると王国は再統一され、カジミェシュ3世は再び領土を拡大します。彼は国力増強のためドイツなどからの移民を奨励し、また1264年のカリシュの法令を全国に拡大して、ユダヤ人を手厚く庇護します。各地から集ってきたユダヤ人は都市を作り、金融業だけでなく商業や手工業にも従事して地域経済を活性化させ、ポーランドを発展させていきました。このためカジミェシュは「農奴とユダヤ人の王」とさえ呼ばれています。

ドイツ人やチェコ人は、同じカトリックのキリスト教徒といえど、神聖ローマ帝国に忠誠を誓ってポーランドの独立を危うくする恐れがありました。その点、国を持たない寄留者のユダヤ人ならば、庇護する者のために甲斐甲斐しく働いてくれますし、人頭税を課して財源とするのも遠慮なく行えます。互いにとってWIN-WIN関係です。かつては西欧でもそうだったのですが。

1340年、カジミェシュは王家が断絶して貴族同士の内紛が続いていたルーシ王国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国)に侵攻します。この戦争は隣国ハンガリーやリトアニア諸侯も巻き込んで長く続きました。

1370年にカジミェシュ3世が崩御すると、跡継ぎとなる男系男子がなく、古来のピャスト朝は断絶します。ただカジミェシュの姉エルジュビェタがアンジュー家のハンガリー王カーロイ(カール)に嫁ぎ、その子ラヨシュ(ルドヴィク)が即位していたので、彼がポーランド王位も兼ねることになりました。しかしラヨシュにも男児がおらず、1382年に彼が崩御すると、王女マーリアがハンガリー・ポーランド王位を継承しました。

マーリアは神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の子ジギスムントと婚約していたため、ハンガリーもポーランドも神聖ローマ帝国の傘下に入ることになります。両国の貴族はこれを拒み、ハンガリーでは同じアンジュー家のナポリ王カルロを、ポーランドではマーリアの妹ヤドヴィガを擁立します。

カルロは1386年に暗殺され、ジギスムントがハンガリー王に即位しますが、ヤドヴィガはリトアニア大公ヨガイラ(ヤギェウォ)と結婚し、ポーランド・リトアニアの連合王国が成立しました。ヨガイラは異教徒でしたがカトリックに改宗し、ヴワディスワフ2世として即位します。

この頃、リトアニアは弱体化したルーシ諸国を併合して大国となっていました。リトアニア人はバルト系諸語を話す少数民族ですが、ドイツ騎士団やポーランド、モンゴル(タタール)との戦闘で実力をつけ、まず現ベラルーシに進出します。彼らは少数派なので正教徒のルーシ人(東スラヴ語話者)に信仰の自由を保証し、協力して他のルーシ諸国を傘下に納めたのです。

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面積が広いぶん人口は少なく、中央集権的ではなく、諸侯の反乱が頻発してはいましたが、ポーランドにとっては心強い味方です。またポーランドはリトアニアに比べれば先進国でしたから、ポーランド貴族らは巧みにリトアニア貴族を取り込み、支配を拡大しようとしました。またポーランド王の権力も、貴族らによって弱体化させられていきます。

ドイツ騎士団やポーランド・リトアニアの侵略に対して、ルーシの辺境であったモスクワにはモスクワ大公国が頑張っていました。当初はジョチ・ウルスの完全な属国で、ルーシ諸侯から貢納を取り立てる役目を授かって勢力を拡大しました。14世紀末から15世紀にかけてジョチ・ウルスが衰退すると独立し、ついには東ローマ帝国の後継者、正教会の守護者としてツァーリ(皇帝)を称するようになります。リトアニアやクリミア・タタールとも戦い、1503年にはチェルニーヒウ、1513年にはスモレンスクを奪取しました。

1547年にツァーリを称したイヴァン4世は、東のジョチ・ウルス後継国家群を服属させ、西のリトアニアと対立します。彼は1558年からバルト海沿岸に対してリヴォニア戦争を仕掛けますが、これはかえってポーランドとリトアニア、スウェーデンの結束を強めることに繋がりました。

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猶太楽園

1569年、ポーランドとリトアニアはルブリン合同を行い、「ポーランド・リトアニア共和国」となりました。この国は選挙によって擁立されるただ一人の君主、元老院(上院、セナト)、そして貴族(シュラフタ)たちによる議会(セイム、下院)によって統治されると取り決められます。これは事実上ポーランドによるリトアニアの併合です。国王の権力は極めて制限され、セイムが実質的に最高の国政決定機関となりました。

当時の貴族(シュラフタ)は両国の人口の1割にも達しましたから、日本史で言えば武士が選挙権を持って国を運営していたようなもので、ニュアンス的に貴族というか士族と呼ぶべきかも知れません。民主的でいいようにも思えますが、これがかえって国政を混乱させました。

シュラフタ階級に属する者のうち、特に裕福で有力な存在をマグナート(大貴族)と呼びました。すなわち大名、殿様です。彼らは大土地所有者で、両国の土地を寡占し、下級シュラフタを買収し、その票によって国政を事実上掌握しました。またセイムは17世紀以後「全会一致」が原則とされ、誰かが自由拒否権を発動すればあらゆる議題を潰せたため、機能不全に陥ります。

彼らの主な財源は、肥沃な農地で生産されて西欧へ輸出される農産物でしたが、これを生産するため農民は貴族によって酷使・搾取され、土地の所有権や移動の自由を失い、農奴と化していきました。そして貴族の荘園の管理者には、金銭感覚に優れたユダヤ人が任命されます。彼らは領主と農民の間に立ち、農民にカネを貸し、旅籠・居酒屋・粉挽き場・製材所などを経営し、労働搾取の成果を領主へ納めて中間マージンをとりました。

こうしてユダヤ人は東欧に広く住み着き、人口を増やしていきます。17世紀には50万人から70万人にも達したといい、当時の世界のユダヤ人口の半分に及んだといいます。彼らはハザールのユダヤ人の末裔ではなく、ドイツやボヘミアから移住してきたアシュケナジム系ユダヤ人で、ドイツ語の一種であるイディッシュ語を話しました。人々は「ポーランドは農民の地獄、町人の煉獄、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」と評したといいます。

ゲットーに閉じ込められることもなく、大貴族の庇護下で裕福な中産階級として暮らせるのですから、ユダヤ人にとってはまことに結構です。高等教育を受けさせる余裕も生まれ、ユダヤ教の研究も進みました。さらに相次ぐ戦争で常に懐具合が悪いハプスブルク家への資金援助も行ったため、ユダヤ人の地位はボヘミアなどでも向上し始めました。

ポーランドの古都ポズナニで裕福な家庭に生まれたイェフダ・レーヴは、叔父ヤコブが神聖ローマ帝国のラビだったことからプラハへ赴き、1553年にチェコ東部のモラヴィア地方の首席ラビとなっています。彼は1588年にプラハへ戻り、1592年には皇帝ルドルフ2世に謁見してカバラについての講義を行いました。同年にはポーランドの首席ラビに選ばれてポズナニに戻り、1609年に亡くなっています。彼は権威あるラビとして尊敬され、「我らのラビであるレーヴ(MHRL、マハラル)」と呼ばれました。

19世紀の伝説によると、彼はプラハのゲットーに住むユダヤ人を守るため、土から生きた人形(ゴーレム、ヘブライ語で「胎児」)を創造しました。彼はヨーゼフと名付けられ、高い知能の持ち主で、不可視のジツや死霊召喚のジツを使ったと言われます。その額(あるいは舌)には神の名(シェム)が羊皮紙に書いて貼り付けられ、これがパワーの源でした。ラビは金曜日の夕方になると羊皮紙を剥がし、安息日(土曜日)を守らせていましたが、ある時これを剥がし忘れたので暴走し、バラバラに崩れ落ちたと伝えられます。

哥薩誕生

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この頃、クリミアを中心としてジョチ・ウルスの後継国家クリミア・ハン国(クリミア・タタール)が存在し、黒海北岸とアゾフ海の沿岸を支配していました。彼らはイスラム教徒で、15世紀後半にはオスマン帝国に服属し、その支援を受けてモスクワと戦っています。モンゴル帝国の後裔である彼らの戦力は侮れず、ポーランドやリトアニアとも同盟していました。

クリミア・ハン国とポーランド・リトアニアが境を接するあたり、「ザポロージャ(早瀬の彼方)」と呼ばれる地域、ドニエプル川沿いのウクライナの草原地帯に、この頃「コサック(カザーク)」と呼ばれる人々が現れます。一応ポーランド・リトアニアには属しますが、ここはまさにフロンティア、最前線の辺境にして冒険者の新天地でした。

ザポロージャは人口希薄かつ広大肥沃、また役人の支配が及ばぬ自由な領域であったので、次第に貧しい農民や町民、没落貴族や下級地主らが冒険に来るようになります。彼らは魚や鳥の卵、蜂蜜や狩猟獣、穀物などを夏になると取りに来て、秋になると帰宅しましたが、役人に分け前を取られるのを嫌って冬になっても戻らず、定住するようになりました。農耕適地でもあったので食べ物には困らず、人口は増加していきます。

15世紀末から16世紀初め頃には、彼ら冒険者はシーチという木造の要塞を中心とする自治組織を作り、武装してタタールの襲撃に備え、逆にタタールを襲って家畜や奴隷を奪ったりするようになりました。これがコサックで、語源はハザールやカザフと同じく、テュルク語で「放浪者」を意味します。フロンティアでの冒険暮らしに魅力を感じた人々は増え、スラヴ人ばかりでなく逃亡トルコ人やタタール、ユダヤ人も加わりはじめました。

ポーランドからすれば胡乱で野蛮な辺境の武装集団ではありますが、キリスト教徒がほとんどだったので、モスクワやオスマン帝国と戦う際には援軍となりました。実際彼らは荒野で鍛えられた真の男ばかりなので結構強く、戦いの役には充分立ちました。ただし大酒飲みの荒くれ者で、暇があると戦いに行きたがり、王命を待たずして勝手に動く危険な連中でした。かつてのルーシ(ヴァリャーグ)やヴァイキングを思わせます。

腕に覚えのある奴らはドイツへ行って傭兵となり、1618年から始まっていた三十年戦争にも参加しています。これは欧州におけるカトリック(ハプスブルク派)とプロテスタント&反ハプスブルク派の最終戦争で、ポーランドは直接参戦しなかったものの、スウェーデンやモスクワとの戦争でかなり疲弊しました。これらの戦争にもコサックは駆り出されています。

増え続けるコサックの数を調整する必要もあり、ポーランドは1572年に「登録コサック」制度を作ります。正規兵として登録されれば生涯の軍役と引き換えに様々な特権が与えられ、貴族に準ずる存在として扱われましたが、そうでないコサックは盗賊扱いでした。非登録コサックは登録数を増やしてほしいと盛んに陳情し、しばしば反乱を起こしては鎮圧されました。こうしたコサックのエネルギーは、ポーランドを脅かす存在となっていきます。

◆І покажем, що ми, браття,◆

◆козацького роду.◆

【続く】

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