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【つの版】ユダヤの謎02・過越渡海

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

エジプト人を殺めて出奔したヘブル人モーセは、東方の荒野で遊牧民と出会い、妻を娶って子を儲けました。このまま平和に暮らしていこうとしていた矢先、彼の前に恐るべき存在が出現します。

◆世紀末

◆救世主

炎柴示現

ある時、モーセは羊の群れを導いて、荒野の奥にある神の山ホレブに至りました。するとそこには「燃える柴」がありました。燃えているのに柴が燃え尽きず、煌々と輝いている不思議な存在です。モーセが興味を持って近づくと、その中から神の声が聞こえました。

「近づくな。履物を脱げ。ここは聖なる場所である。わたしはお前の先祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神である」

モーセは恐れおののき、履物を脱いでひれ伏します。神はこう告げました。

「わたしは我が民(ヘブル人)の苦悩を知っている。わたしはお前をファラオのもとに遣わし、彼らをエジプトから救い出して、乳と蜜の流れる良い広い地、カナアン人らの住む土地へ導くであろう」

モーセはうろたえ、恐れて辞退しようとしますが、神は繰り返し彼に命令します。また「彼ら(ヘブル人)が『その方の名はなんと言われる』と聞いたらなんと答えましょう」とモーセが問うと、こう答えました。

「わたしは、在って在る者(’ehyeh ’ăšer ’ehyeh)。『わたしは在る(’ehyeh)』という。これがわたしの名である」

すなわち、子音表記でYHVH…ヤハウェ(Yahweh)と呼ばれる神です。省略形のyah,yehoなどは人名にしばしば用いられ(ヨ・シュア、イザ・ヤ、ヨ・ハネなど)、ギリシア文字転写ではΙαουε(iaoue)、Ιαβε(iabe)と綴られます。この神は「おれはREAL(実在)だ」と自ら称しているのです。他者に創造されることなく自ら存在し、他を創造することも含意するのでしょう。ヒンドゥー教の主神シヴァも大自在天(マヘーシュヴァラ)と呼ばれます。

のち「神の御名を直接呼ぶのは失礼」というマナーが出来たため、婉曲表現としてヘブライ語で「主(しゅ、旦那様)」を意味するアドナイ(Adonai)と呼ぶようになり、他の言語でもギリシア語Kyrios、ラテン語Domini、英語Lordなど同じ意味の語で呼びます。エホバ(Jehova)と読むのはアドナイの母音をYHVHに当てはめた後世の誤読です。

モーセは「私には無理です。民が私を信じるはずはありません。それに私は口下手です」と何度も辞退しようとしますが、神は怒って「創造主であるわたしを信じないのか。民にはわたしの見せる奇跡(しるし)を見せて信じさせよ。お前の兄アロンは雄弁だから代弁者としろ」と無理強いします。そしてモーセの持つ羊飼いの杖を蛇に変えたり、モーセの手を白くしたり戻したりする(微妙な)奇跡を見せました。

もとはといえば、モーセのヘブル人に対する義侠心が昂じてこうなったのです。それに神の命令は絶対で、拒み過ぎれば殺されます。モーセは腹をくくってお告げ通りにやることとし、妻の父エテロに「エジプトに帰って身内の生存を確認したい」と申し出ます。エテロは「安心して行って来い」と送り出し、モーセは妻子を連れてエジプトへ戻りました。

途中で神のお告げを聞いた兄アロンと再会し、二人はエジプトでヘブル人の長老たちを集め、お告げを語ります。またモーセが例の奇跡を見せると、民は幸いみな信じてくれました。時にモーセは80歳、アロンは83歳という高齢であったといいますが、仮に半分とすると40歳ぐらいでしょうか。

埃及被災

当時のファラオは、ラムセス2世の次ですからメルエンプタハのはずです。父が92歳まで長生きし67年間も在位したため、即位時には60歳を超えていました。モーセとアロンは彼に謁見し、「荒野で我らの神・主(YHVH)を拝ませてください。さもないと我らに災いが下ります」と告げます。ファラオは眉を顰めたか鼻で笑ったかして「お前たちは労役を怠けようというのか」と言い、ヘブル人の労役ノルマを厳しくするよう命じました。

ヘブル人たちは「モーセとアロンが変なことを言ったせいだ」と怒り、彼らに不平不満をぶちまけました。モーセが神に祈ると、神は「もう一度ファラオに会って同じことを言え」と命じます。そして「ファラオが『奇跡を行って証拠を示せ』と言ったら、アロンに杖を投げさせよ」と告げました。彼らが行ってそうすると、杖はになりました。ファラオは宮廷に仕えていた魔術師らに命じて同じことをさせますが、アロンの杖が変じた蛇は魔術師らの杖が変じた蛇を呑み込んでしまったといいます。

しかしこの程度でファラオは納得しません。そこで次に二人は杖でナイル川の水を打ちました。すると水はに変わり、川の魚は死に、川は臭くなって飲めなくなります。魔術師らも対抗して同じことを行いましたが、もとに戻せなかったためエジプト人は大いに迷惑したといいます。これが第一の災いです。ファラオは機嫌を悪くし、ヘブル人を立ち去らせはしませんでした。

次にアロンがナイルの川上へ杖を差し伸べると、無数の蛙が現れ、エジプトじゅうに蔓延して家の中に入り、体に這い上がりました。これが第二の災いです。魔術師も同じようにして蛙を出現させましたが、アロンが出現させた蛙を食べさせようとしたのでしょうか。たまらずファラオは「わかった、この蛙を去らせてくれ。そうしたらお前たちを荒野へ行かせよう」と約束しましたが、モーセが神に祈って蛙を死に絶えさせると、ファラオは約束通りにしませんでした。喉元過ぎればなんとやらです。

続いてアロンが杖で地の塵を打つと、ブヨ(ケジラミとも)となって人と家畜を襲います。魔術師たちは同じことをしようとしますが失敗し、ファラオは同じように約束しますが、また約束を破ります。さらにアブ(ハエとも)がエジプト全土を襲い、疫病が家畜を襲い、腫物の出る病が人畜を苦しめ、巨大なが降り注いで人畜と作物を打ちのめし、飛蝗(サバクトビバッタ)の群れが襲来し、手で触れるほどの濃密な暗闇が全土を包みます。これで災いの数は九つになりましたが、ヘブル人には被害が及びませんでした。

魔術師はもはや何もできず、ファラオは災いのたびに空約束をし、反故にすることを繰り返します。これは「神がわざとファラオの心を惑わして、神の凄さを地上にアピールしているのだ」と書かれていますが、どう見ても悪魔の所業です。否、悪魔は神の許可を受けて活動していますから、荒振る神の祟りなのですが。聖書の神はこのような神で、気分次第でシヴァやスサノオめいて災いを下し、殺戮も救済も大いに行います。ご安心下さい。

合理的に解釈すると、これらの災いは自然現象でしょう。ナイル川の上流で土砂崩れが起き、水が粘土で汚染されて赤っぽくなり、腐った水から蛙や虫が沸き出し、疫病が流行したわけです。そこへ異常気象や飛蝗の襲来が重なれば、「これは神の祟りだ」と誰もが思うに違いありません。地中海などで起きた火山噴火によって火山灰が降り注いだとする説もあります。まあ実際に起きたとする記録はエジプト側になく、ヘブル人の神話伝説なのですが。

過越渡海

いよいよ出エジプトのクライマックスです。神はモーセとアロンを通じてヘブル人に出発の準備をさせ、こう命じます。「一家族に一頭ずつ子羊を用意して屠り、家の門柱と鴨居にその血を塗りつけよ。家の中にいて朝まで外に出るな。わたしが真夜中に出ていって、エジプト全土の初子(ういご、母胎から最初に生まれた子)を人も家畜も全部殺すが、血のしるしがある家は過ぎ越していく。お前たちは旅支度を整え、酵母を使わないパン(マッツァ)と苦菜、子羊の肉を急いで食べて立ち去れ」

ワイルドハントか百鬼夜行か、果たしてそのようなことが起き、ファラオはついに「疫病神どもめ、とっとと出ていけ!」とヘブル人に命じます。こうしてヘブル人はエジプトを立ち去り、430年ぶりに東へ向かいました。メルエンプタハの在位期間は前1212-前1202年ですから、ヤコブらが来たのは紀元前17世紀中頃となり、ヒクソス王朝の頃に相当します。時にユダヤ暦正月の15日、太陽暦では3月末から4月の満月の日のこととされます。その人数は60万人以上と書かれていますが、実際の数字ではありません。

神はヘブル人を導くため、昼は雲の柱、夜は火の柱となって現れました。エジプトからカナアンへ行くには地中海沿いの北の道を行くのが最短距離ですが、神はそちらへ向かわせません。スコテ、エタムを経て、「ミグドル(要塞)と海との間にあるピ・ハヒロテの前、バアルゼポン(見張りの主)の前」というところに宿営させます。これらの地名がどこなのか定かでありませんが、エジプト本国とカナアンの国境地帯に違いありません。この海はいわゆる紅海ではなく「葦の海(Yam Suf)」と呼ばれる湿地でした。

葦(Suf,パピルス)が生えるのは淡水に限られるため、紅海に属するスエズ湾や地中海ではありえません。現在スエズ運河の一部になっている大苦湖(Great Bitter Lake,大ムッラー湖)という塩湖のことともされますが、やはり塩分が強いため除外されます。条件に合いそうなのはその北、ティムサ湖と思われます。これを「紅海」と誤訳したのは、前3世紀にエジプトでギリシア語訳された「七十人訳(セプトゥアギンタ)聖書」からです。

ヘブル人がそこに宿営していると、ファラオの軍勢が追いかけてきて殺そうとします。武装もないヘブル人は恐れおののき、「モーセはおれたちを荒野で殺すためにこんなことをしたのだ!」「エジプトにいた方がよかった」とパニックを起こしますが、モーセは「主がお前たちのために戦う」と勇気づけ、天使と雲の柱がエジプト人の前に立ちはだかりました。

暁の時、モーセが杖を海の上に差し伸べると、猛烈な東風が吹き、海水は引いて陸地が現れました。ヘブル人はその間を急いで渡り、エジプトの軍勢も後を追って入りましたが、神は彼らの二輪戦車の輪を重くして妨害します(湿地帯に乗り入れれば当然そうなります)。ヘブル人が対岸に渡り終えると、モーセは再び杖を差し伸べ、海水を逆流させました。道の左右に垣根のように聳えていた海水は、立ち往生していたエジプトの軍勢に襲いかかり、彼らは全員溺死したといいます。あまりにも有名な奇跡です。

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これを見たモーセとアロンの姉ミリアムは神を讃える歌を歌い、ヘブル人はみな神を恐れたといいます。果たして、実際にあったのでしょうか。または甚だしく誇張されたとはいえ、何事かが伝説の核になったのでしょうか。

戦勝碑文

エジプト側の記録には、60万人ものヘブル人奴隷が集団脱走し、ファラオとその軍勢が溺死したという話はありません。十の災いも書かれていません。恥辱や畏怖のあまり書き残さなかったのだとか、まだ見つかっていないだけだとか言うことは出来ますが、少なくとも考古学的証拠はありません。

ただし、メルエンプタハの治世第5年(紀元前1208年)には東方属領で反乱が起き、ファラオ自ら遠征を行っています。これは程なく鎮圧され、同年に戦勝記念碑が作られました。これは1896年にテーベで発掘され、解読されています。そこにはこう書かれています。

チェヘヌ(リビア)は荒廃し、ケタ(Kheta,ヒッタイト)は静まり、カナアンは諸々の災いに占領され、アシュケロンは連行され、ゲゼルは捕縛され、イェノアムは水泡に帰し、イスラエルは無に帰して種を失い、ホルは寡婦となった。(メルエンプタハの戦勝碑文)

なんと、イスラエル(ysrỉꜣr,Israel)という語があったのです。これは古代エジプトの全記録中、イスラエルに言及する唯一のものであり、かつイスラエルに言及する最初の、確実な聖書外史料です。ここではイスラエルは「後に種(子孫)も遺さぬほど滅ぼし尽くされた」と書かれていますが、ファラオの戦勝記念碑ですから誇大に喧伝したプロパガンダに決まっています。

小競り合いがあって撃退した程度のことでしょうが、そのような名前の部族集団があったことはあったのです。このように書かれているということは、イスラエル人(ヘブル人)は既にカナアンかその周辺にいたわけですが、これは聖書の記述と矛盾しますし、メルエンプタハはこの後も5年ほど生存して元気に外敵と戦っています。まあこうした史実をもとにして、イスラエル人が後から民族起源神話を作り上げていったのでしょう。

海上民族

同じ頃、メルエンプタハはもう一方の敵と戦っています。西のリビア(チェヘヌ)の民、及び彼らと共に襲来した多民族の混成集団です。

彼らは1881年に「海の民」と仮に名付けられますが、碑文ではそれぞれアカイワシャ(アカイア人)、トゥルシア(エトルリア人)、ルッカ(リュキア人)、シェルデン(サルデーニャ人)、シェケレシュ(シチリア人)と呼ばれています。すなわち地中海北岸や西部の島々の住民です。この時初めて出現したわけではなく、紀元前15世紀頃からエジプトやヒッタイトの記録に散見され、傭兵や海賊、商人として活動していました。

メルエンプタハはペルイレルで彼らを迎撃し、6000人を殺し9000人を捕虜とする大勝利を得た、と碑文には書かれています。しかし彼らは以後100年余りに渡って地中海沿岸諸国を荒らし回り、ヒッタイト帝国は滅亡・崩壊し、エジプトは衰退して分裂します。ギリシア本土ではドーリス人が南下してミケーネ文明が滅び、記録のない「暗黒時代」を迎えました。イスラエル人、ペリシテ人、フェニキア人などはこの時代に活動し、勢力を広げています。

このような大変動を「前1200年のカタストロフ」と呼びます。あのトロイア戦争もこの時期か少し前にあったようです。またヒッタイトの崩壊によって彼らが独占していた製鉄技術が各地へ拡散し、青銅器時代から鉄器時代へ移行して行きます。おそらく長期的な気候変動や火山噴火による津波、北方からの民族集団の移動に伴う玉突き現象などが重なったものと推測されます。

イスラエル十二支族の中にも、ダン族など海の民の一派と思われる集団が存在しますし、パレスチナ南西部の沿岸部に定着したペリシテ人はクレタ島から来たらしく、イスラエルの諸部族と争ったり交流したりしていました。こうした渾沌の中から、イスラエルはおぼろげに姿を現し始めたのです。

◆時はまさに◆

◆世紀末◆

【続く】

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