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【つの版】徐福伝説12・富士登仙

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福伝説の最終目的地は、日本を代表する霊峰・富士山です。ここが蓬莱山であり、不死の山だという伝説はよく知られており、10世紀のチャイナの仏教辞典『義楚六帖』にも日本僧・寛輔の伝える話として収録されています。これは熊野の徐福伝説よりも古く、また徐福や童男童女の子孫が秦氏であるという話も同時に登場しています。改めて検証していきましょう。

◆金剛◆

◆阿吽◆

噴火崇嶽

日本最高峰にして独立峰の富士山は、その美しさと噴火の激しさにより古くから信仰の対象でした。縄文時代には静岡県富士宮市に千居遺跡、山梨県都留市に牛石遺跡という配石遺構(ストーンサークルなど)があり、ともに富士山がよく見える地点にあることから、既に原始的な山岳崇拝が行われていたようです。この頃、富士山やその付近では繰り返し噴火や火砕流や山体崩壊が起きており、荒振るカミとして崇められていたのでしょう。

富士山の麓には人々が長らく暮らしており、珠流河国造のものとも推定される浅間古墳(前方後円墳)の出現時期から、ヤマト王権の影響下に入ったのは4世紀頃と思われます。8世紀初めには令制国の駿河国となり、富士郡が置かれました。フジの語源には諸説ありますが、平安前期の『富士山記』には「富士郡の名から富士山と呼ぶ」とあるものの、富士郡の名の由来自体が定かでありません。古くは福慈・不二・不尽・布自などと字をあてました。

721年に成立した『常陸国風土記』逸文によると、むかし神祖尊(かむみおやのみこと)が諸神の処を巡り歩いていた時、駿河国の福慈岳(富士山)に辿り着いた際に日が暮れました。そこで尊が福慈神に宿を請うと、神は「新嘗祭(収穫祭)のために家中が物忌をしていますので」と断りました。尊は恨んで泣き、呪いをかけてこう告げました。「お前は親であるわしによくも宿を貸さなかったな。お前の住む山は生涯の終わるまで、冬も夏も雪や霜に覆われ、冷気と寒気が重なり襲うであろう。人民は登ることがなく、供物を捧げることもないであろう」。そして東の筑波山へ行くと、筑波山の神は新嘗祭にも関わらず尊をもてなしたので、尊は大変喜び祝福したといいます。

これは筑波山を称えるために富士山を貶めただけで、実際には広く信仰を集めていました。この頃の富士山は活動期にあり、『万葉集』では高橋虫麻呂が「燃ゆる火を雪もち消ち、降る雪を火もち消ちつつ」と富士山が火を噴く様を歌に詠んでいます。「日本国の鎮め」と讃えた歌もあれば、胸中の恋心を富士山の火に例えた歌も伝わっています。

『続日本紀』によると天応元年(781年)に富士で灰が降り、山麓の草木が枯れました。『日本後紀』によると延暦19年から21年(800-802年)に大噴火が発生し、東側斜面に側火口ができ、溶岩と火山灰を噴出しました。このため相模国の足柄峠が一時通行不能となり、箱根が迂回路とされています。

そして『日本三代実録』によると、貞観6年から8年(864-866年)にかけて富士山は大噴火を起こしています。四方の山は焼かれ、炎は20丈(60m)あまりも立ち上り、雷のような声が轟いて三度地震が起きました。火は10日以上経っても消えず、岩を焦がし嶺を崩し、砂石は雨のように降り、噴煙が立ち込めて近づくこともできませんでした。また富士山の西北にある本栖湖剗(せ)の海には溶岩が流れ込み、一部が埋まりました。

この時に流れ出た大量の溶岩は、富士山北麓の森林地帯を焼き払いました。これが現在の青木ヶ原で、現在の樹海は溶岩の上に千年の時をかけて植生が回復した姿なのです。またこの火山活動と関連してか、貞観11年(869年)には三陸沖で貞観地震が発生し、沿岸部は大津波に襲われました。仙台平野は3-4kmに渡って水没し、1000人が溺死したといいます。

こうした富士山の噴火活動は神のしわざとみなされ、朝廷は駿河国の浅間神(アサマ=火山の神)に対して祭祀を行い、位階を与えてなだめようとしました。仁寿3年(853年)には霊験が著しい名神(みょうじん)に列せられ、貞観元年(859年)には従三位から正三位に昇格しています。当時の東国の人々や朝廷にとって、富士山はよく知られた、恐るべき神の山でした。

役君登仙

弘仁13年 (822年)に成立したとされる説話集『日本霊異記』には、修験道の開祖・役小角が富士山に登ったという伝説が記されています。彼は孔雀明王の呪法を修め、鬼神を使役していましたが、人心を惑わす妖術師との誣告を受け、母が捕らえられたためおとなしく捕まります。文武天皇は彼を伊豆大島へ流刑としましたが、昼間は島にとどまっていたものの、夜になると海上を陸地のように走り、空を飛んで富士山に登り修行したといいます。のち彼は「富祇(ふじ)の表」を朝廷に奉り、流刑から3年後に罪を赦され畿内へ帰りましたが、大宝元年正月に仙人となって昇天したといいます。

都良香(834-879)の『富士山記』にも「昔、役の居士といふもの有りて、其の頂きに登ることを得たりと」とあり、事実はともかくそう信じられてはいたようです。各地の山々を巡り歩く修験者たちも、富士山を霊峰・聖地として崇めていたことは確かでしょう。

9世紀初めには空海が唐に入って真言密教の奥義を学び、日本に戻って真言宗を伝え、東寺を道場とし、紀伊国に高野山金剛峯寺を開いています。のち真言宗醍醐派の祖・聖宝は、役小角に私淑して金峯山で修行し、南都諸宗や紀伊半島の修験道を真言宗と結びつけました。

927年に唐に渡った寛輔は奈良興福寺の僧侶で、大瑜伽教法(真言密教)を修めていました。『義楚六帖』によれば、彼は富士山の前に吉野金峯山寺の金剛蔵王権現について言及しています。役小角は金峯山で金剛蔵王権現を感得し、金峯山寺を開き、吉野と熊野の間の道を駆け、伊豆大島から富士山に登り、最後は仙人になって昇天したというのですから、徐福伝説と結びつくための材料は揃っています。すでに民間で語り伝えられていた可能性もありますし、寛輔がチャイナで長年暮らす間に日本における伝説を思い起こし、徐福と結びつけてチャイナの人々に語り伝えた可能性もあります。

富士仙鶴

では、富士山周辺ではどのような徐福伝説があるのでしょうか。熊野から黒潮に乗って太平洋岸を進んだとすると、志摩国の南岸を通り東海地方に上陸したはずです。愛知県の熱田神宮や豊川市、静岡県の島田市などに転々と徐福伝説がありますが、海の彼方には常に富士山が見えるのですから、海上を進んだとするのが自然でしょう。浜名湖、御前崎を通り過ぎて駿河湾に入れば、目の前に雄大な富士山が見えます。

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三保の松原を過ぎたのちは、富士川の河口部か、潤井(うるい)川の河口にある田子の浦で上陸できます。また愛鷹山の南麓の沼津に上陸したとも言われます。このあたりは富士山などからの湧水や河川により低湿地となっており、まさに沼津で、浮島ヶ原とも呼ばれました。沼川のほとりには浮島ヶ原自然公園があり、かつての面影を残しています。

富士山の南、静岡県(駿河)側には、あまり徐福伝説がありません。これに対して北の山梨県(甲斐)側には、徐福伝説が多く伝えられています。

山梨県富士吉田市(甲斐国都留郡)の聖徳山福源寺に「鶴塚」があり、徐福の墓と伝えられます。その碑文によると、孝霊天皇の時に秦の徐福が東海の神山に薬を求めてこの地に渡来し、帰国せぬまま薨去しました。のちに三羽の鶴が現れてとどまり、人々は徐福の化身としたため、この地を鶴(都留)と呼ぶようになったといいます。それから遥か後、元禄年間に三羽の鶴の一羽が死んだので、その骨を埋めたのが鶴塚だと伝えられます。

まことに美しいお話ですが、都留郡の「つる」は鳥の鶴ではなく、桂川沿いに平地が富士の裾野を貫いて蔓(つる)のように伸びていることに由来するとされます。まあ鶴は仙人の象徴であり、例の王子晋は鶴に乗って昇天したとされますから、繋がりがないでもありません。

そしてこの富士吉田市には、富士山の麓に栄えた超古代文明に関する、恐るべき書物が存在します。ここから先は深呼吸をし、眉に唾をよく塗りつけ、正気度に気をつけて読んで下さい。覚悟はいいですか?

宮下文書

富士山の周辺には多数の「浅間神社」が存在しますが、国史上最古のものは静岡県側の富士本宮浅間大社で、朝廷からも「浅間神」として祀られています。しかし山梨県側の冨士御室浅間神社が最古であるとも言われ、各社で論争がありました。

富士吉田市大明見に鎮座する小室浅間神社は旧称を「阿曽谷宮守神社」といい、明治16年(1883年)に宮司の宮下家が「宮下文書(富士古文献)」と総称される秘書を発見したことで知られます。大正10年(1921年)、三輪義熈はこれらを整理編集して『神皇紀』と名付け、隆文館より刊行しました。

そこには天地開闢と神々による世界統治が記され、高皇産霊尊=神農氏が上古チャイナから蓬萊(日本)に渡り、富士山に高天原王朝を開いたとされています。また天孫の孫ウガヤフキアエズから神武の兄五瀬命まで、51代に及ぶ王朝も富士山=高天原にあったとしています。それらに関する記録を行ったのが徐福であり、徐福もまたこの地で薨去したといいます。

『神皇紀』は、国立国会図書館のデジタルコレクションで自由に読むことが出来ます。その中の徐福に関する部分を要約してみましょう。

徐福の祖先は軒轅氏(黄帝)である。軒轅氏の第四子を忠顕氏といい、その六世孫の萬正氏は夏の禹王に仕え、農作のことを司った。子孫は代々夏王朝に仕えたが、夏が滅ぶと殷王朝に仕えなかった。萬正氏の48世の末裔(忠顕から54世)が正勝である。彼は文学と地理に詳しく、周の武王に仕えて功績があり、徐姓を賜い、楚国の首長に任命された。武永・武正・武建・武長・武良・武達・武富・長佐・武天・武宗・武彦・武晴・武賢・武顕・武祖・武力・武春の17世を経て、[曾邑]子に至った(忠顕から61世)。
[曾邑]子は邾喜に殺され、弟の榮楚が憤然として父祖の領地である楚国を復興したが、遺児の榮公は母と共に逃げて深山大洞に隠れ、農民となった。彼から農雄・田眞・泰田・国永・洞山・徐子・原田を経て、孔子の弟子である子路が出た。その子孫は太達・光正・良永・長良と続き、長良の子が秦の昭襄王の宰相となった范雎(応侯)である。彼が斉知の娘・実永婦人を娶って儲けたのが、忠顕の87代の末裔の徐福であった。
徐福は名を子(市)といい、福はあざなである。広く儒学を修め、のち天竺に渡り、7年間仏学を究め、一切経の奥義を学んだ。また薬師如来の仏像を得て本国である秦に帰り、秦王政に仕えて功績があったので、徐永の娘である官女・福寿(福正・福井とも)を賜った。秦王は天下を統一して始皇帝となった後、東海に巡幸して蓬莱山島を遥拝した。
この時、徐福は奏上した。「蓬萊・方丈・瀛州の三神山は、全世界の大元祖国にして、大元祖祖の神仙が住んでおられ、不老不死の良薬がございます。もしこれを服用すれば、千萬歳の寿命を保持することができます。私は童男童女五百人と海に入り、これを求めたいと思います」始皇帝がこれを許可すると、徐福は「少なくとも15年、遅ければ30年はかかるでしょう。相当の旅装として、金銅鉄や砂金・珠玉、衣食や器具、大船85艘が必要です」と奏上した。始皇帝はこれらを用立て、始皇28年6月20日に出発させた。
一行は不二蓬莱山を求めて東海を進み、孝霊天皇72年の10月25日に木日(紀伊)国の木立野の大山に到着した。しかし海上で見た不二とは異なっていたので、徐福は各地へ人々を派遣して探させ、3年後に発見の報を聞いて再び出港した。孝霊天皇74年9月13日に出発し、10余日後に住留家(駿河)の宇記島原(浮島ヶ原)に上陸した。
そして岡松駅から永久保駅を越え、山村を経て高天原に登り、川口駅から阿祖谷小室家基都駅に10月5日に到着した。徐福らはまず阿祖山大神宮初め各七廟を拝礼し、大室や中室に居住することにした。一行中には農夫・大工・壁塗・漁人・紙師・笠張・楽人・衣類・工女・酒製造人・塩炊・鍛冶・鋳物師・石工・諸細工夫・医師などがいた。また童男童女に蚕を養わしめ、婦女に糸を作らせ機(はた)を織らせた。
時に武内宿禰は阿祖山大神宮へ奉幣に来たが、徐福の来朝を聞いて大いに喜び、徐福とその子・福永に入門して教えを授かった。また自らの子・矢代宿禰をも彼らに学ばせ、矢代宿禰は秦(はた)にちなんで羽田矢代宿禰と名乗ったという。徐福はこの地で学問を講義し、高天原に住む36柱の神祇の後裔はみなやって来て教えを聞いた。彼らは自分たちの由来を各々述べたので、徐福はそれらを書き記して『十二史談』とし、『徐福伝』と称した。
徐福は小室の高座山に宝蔵を造営し、自ら持ち来たった薬師如来像を安置して祀り、また各種書類1800巻、孔子の著作1850巻、『徐福伝』及び諸々の宝物を収蔵して、阿祖山大神宮に奉納した。のち徐福は孝元天皇7年癸巳(前208年)に高天原の中室で薨去し、麻呂山の峰に葬られた。
徐福の長男の福永は、父の後を嗣いで姓を福岡と改めた。次男は姓を福島と称し、紀州熊野に一族五十余人を引き連れて移住した。その子孫は社祠を建てて徐福の霊を祀った(阿須賀神社)。徐福四世孫の福仙は大神宮の神官に任ぜられ、代々これを継承したが、32世福岡萬七太徐教の時に富士山が大噴火を起こした。すなわち桓武天皇の延暦19年(西暦800年)のことで、高天原は40余丈も埋没し、神代の古跡は失われた。徐教らは相模国高座郡早乙女郷の岡田原に難を逃れ、寒川神社の傍らに宝蔵を造営して遺された古文書や宝物を納め、当社の神官となったという。云々。

中世日本神話の流れを引く、荒唐無稽なパルプ小説じみた伝説です。阿祖谷の宮下家の誰かが妄想をたくましくし、我が神社は神代の昔から続くのだと主張するため、様々な伝説や系譜を繋ぎ合わせて作ったに違いありません。しかしこれも立派な徐福伝説のひとつであり、現代のオカルト・スピリチュアル界隈やカルト宗教、伝奇小説や漫画、アニメ、ゲーム、観光産業などにまで大きな影響を与えています。

江戸時代には国学復古神道の高まりもあって、こうした奇怪な伝承が作られ、神代文字と称するものも作り出されました。明治時代から大正・昭和にかけて、このたぐいの偽史は結構流行し、新興宗教の教典になったりしました。青森県でキリストの墓を、石川県でモーセの墓を「発見」した竹内巨麿は昭和3年(1928年)に『竹内文書』を発表して天津教の開祖となりましたが、その内容は『神皇紀』等に類似しています。大正15年(1926年)には浜名寛祐(1864-1938)が『日韓正宗溯源(契丹古伝)』を刊行し、五族協和なイデオロギー溢るる超古代史を記しています。深入りすると危険なのでやめますが、知っておくと面白いと思います。神話伝説とは時代に応じて変化し、必要に応じて新たに創り出されるものなのです。

◆富嶽◆

◆蓬萊◆

徐福は実際、日本に来たでしょうか。九州を経て熊野に来たという伝説は、彼が神武天皇やスサノオ、あるいは饒速日であることを示すのでしょうか。もしくは邪馬台国の建国者なのでしょうか。つのはどれも蓋然性は低いと考えますし、来ても大したことは出来なかったのだろうと推測します。しかし彼のミームは日本に辿り着き、全国に増え広がって信仰され、日本とチャイナの関係にも影響を与えたわけです。大したことではないでしょうか。

次回はエピローグとして、徐福と忍者について調査します。

【続く】

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