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【つの版】倭国から日本へ08・仏教公伝

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

552年、新羅は百済を裏切って高句麗と手を結び、百済が奪還した漢城(ソウル)を攻撃します。窮地に陥った百済は任那・倭国に救援を求め、その一環として倭国へ仏像と経典を贈りました。これが「仏教公伝」です。事情は極めて政治的ですが、仏教は倭国でどのように受容されたのでしょうか。

◆覚◆

◆醒◆

日本書紀巻第十九 天國排開廣庭天皇 欽明天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_19.html

仏教公伝

冬十月、百濟聖明王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如、人懷隨意寶、逐所須用、盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記『我法東流』。」
欽明13年(552年)冬10月、百済の聖明王が西部姫氏達率・怒唎斯致契(ぬりしちけい)らを遣わし、釈迦仏金銅像一軀、幡蓋(傘蓋)若干と経論若干巻を献じた。別に上表文があり、(仏教の)流通礼拝の功徳を讃えていう。「この法(教え)は、諸法の中で最も優れており、難解で入り難く、周公や孔子も知りません。この法は、無量無辺の福徳果報を生じることができ、無上の菩提を悟らせます。たとえば人が如意宝珠を得て何でも思い通りになるように、妙法の宝に祈願すれば乏しいことはありません。かつ、遠く天竺から三韓に至るまで、この教えを尊敬しないことはありません。そこで百済王にして(日本国天皇の)臣である明は、謹んで陪臣の怒唎斯致契を遣わし、帝の国に伝え、畿内に流通させます。まさにブッダが『我が法は東へ流布するであろう』と予言されたとおりであります」

いかにも仏教的な文言が並べ立てられていてありがたみがありますが、それもそのはずで、この上表文は『金光明最勝王経』という仏典からの引用や多少改変しての引用が多いことで知られます。

是時童子語婆羅門曰「若欲願生三十三天受勝報者、應當至心聽是金光明最勝王經。於諸經中最為殊勝、難解難入、聲聞獨覺所不能知。此經、能生無量無邊福德果報、乃至成辦無上菩提。我今為汝略說其事。」(金光明最勝王経・如来寿量品
譬如澄潔清冷水、能除飢渴諸熱惱、最勝經王亦復然、令樂福者心滿足。
如人室有妙寶篋、隨所受用悉從心、最勝經王亦復然、福德隨心無所乏。
金光明最勝王経・四天王護国品

この経典は4世紀頃に成立したもので、漢訳としては北涼の曇無讖が412-421年に訳した『金光明経』、宝貴らが597年に編纂した『合部金光明経』、唐の義浄が703年に訳した『金光明最勝王経』などがあります。しかし552年に存在した曇無讖訳ではなく、唐の(それも百済が滅亡した後の)義浄訳を用いており、明らかに後代の作文です。百済が日本の天皇もとい倭王に「臣」と称する状況でもありません。「我法東流」も唐の玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻302に依りますが、まあチャイナや韓地まで東流したのですから、これ以前にもそうした教説は存在したでしょう。

甚深般若波羅蜜多、我滅度已、後時後分、後五百歲、於東北方當廣流布。(大般若波羅蜜多経・難聞功徳品)

ちょうど日本書紀が完成する直前、718年に唐から帰国した道慈という僧がこれらの経典を持ち帰っており、彼が仏教公伝の記事に手を加えて装飾した可能性もあるといいます。そうしたわけで、この文は史実性に乏しいありがた話ですが、一応続きも見ていきましょう。

欽明はこの妙法を聞いて歓喜踊躍しますが、「朕だけでは決められぬ」といい、群臣に「西蕃(百済)の献上した仏像はたいそう立派な姿だが、祀ったものだろうか」と問います。蘇我稲目は「西蕃諸国は皆これを祀っており、我が豊秋日本(倭国)だけが背くわけにも参りません」と上奏します。しかし物部尾輿と中臣鎌子は「我が国家(天皇)の天下を治められるのは、天地社稷の百八十神を春夏秋冬に祀られるのを事としています。今改めて蕃神を祀れば、国神の怒りを招く恐れがあります」と上奏します。

天皇は「ならば稲目に授けて、試しに祀らせよう」と提案し、稲目は喜んで仏像等を受け取ります。そして小墾田の家(奈良県高市郡明日香村雷丘)に安置し、向原の家を清めて寺(明日香村大字豊浦の向原寺)としました。これが日本書紀に登場する最初の仏寺です。

しかし、やがて国内に疫病が流行して多くの民が死亡し、治るまでも長く続いて治療できませんでした。物部尾輿・中臣鎌子は「我らの意見を用いられなかったせいです。仏像を投げ棄ててしまいなさい」と上奏したので、天皇は了解し、役人に命じて仏像を難波の堀江(天満川)に棄てさせ、寺に火を点けて焼き払わせました。すると、風もないのに(延焼したわけでもないのに)宮殿で火災が起きました。ブッダの祟りでしょうか。

翌欽明14年(553年)年5月、河内国から「泉郡茅渟海(大阪湾南部)の海中から梵音が雷鳴のように鳴り響き、光彩は太陽のように明るく照り輝いています」という報告がありました。天皇は怪しんで人を派遣し調べさせると、溝(難波の堀江)が海に注ぐあたりに光り輝くクスノキ(樟木)が浮かんでいます。天皇は(ブッダのしわざと思い)職工に命じて、このクスノキから二体の仏像を彫らせました。これが吉野寺(現・世尊寺)の放光樟像です。

この寺は聖徳太子が建立したとされ、古くは比蘇寺・現光寺ともいいます。本尊の阿弥陀如来と十一面観音菩薩の像が光を放つという伝承があり、後者は土佐から淡路に漂着した沈水香木で作られているともいいます。

要は寺の仏像の縁起譚で、実際に起きたかどうか定かではありません。せっかく仏像や経典を贈られたのに、疫病が流行ったからと棄てられ、寺も燃やされるという災難な始まりです。祀っても福徳は来ず疫病が来たのだから当然ですが、棄てた仏像は二倍になったというオチがついています。33年後の585年にも、ほぼ同じ筋書きの縁起譚が述べられています。

物部尾輿やその子・守屋は、日本書紀において反ブッダ派として描かれていますが、物部氏も実際は仏教を受容し仏寺を営んでいました。大伴金村が失脚した後、蘇我氏と物部氏が政権を巡って争い、物部氏が敗れたために蘇我氏系史料では悪役を押し付けられたのでしょう。

中臣鎌子は、中臣(藤原)鎌足の高祖父の父にあたるとされます。中臣氏は卜部(うらべ)氏の分族として宮中の祭祀・卜占を司る氏族で、仏教は商売敵ですから、彼らが反対するのはわかります。のち天孫降臨に付き従った天児屋命の末裔とされ、神功皇后の時に烏賊津臣(雷臣)が審神者となり、武内宿禰の娘を娶って大小橋命を儲けたといい、その玄孫が鎌子ということになりましたが、例によって後付です。系譜上は壱岐氏とも関係があります。

任那滅亡

そして贈った側の百済にも功徳はなく、高句麗・新羅連合軍の攻撃により平壌の包囲を解いて漢城を棄て、新羅が漢城に入ります。ついに新羅の領土は黄海に達し、チャイナと直接海を越えて交流することが可能になりました。百済はますます苦しくなり、必死に倭国へ宝物や人材を贈って援軍を求めます。倭国は次々と援軍を派遣し、聖明王も王子余昌と共に戦います。新羅に王女を贈って講和しようとしましたが新羅の侵攻は収まらず、ついに欽明15年(554年)に聖明王は戦死しました。末法なのでブッダは寝ています。

欽明16年(555年)2月、聖明王の子の余昌(威徳王)が弟の余恵を倭国に遣わし、前王の戦死を伝え、合わせて援軍を要請しました。『日本書紀』ではなぜか余昌が欽明18年(557年)まで即位していませんが、『三国史記』ではすぐ即位して新羅・高句麗と戦っています。倭国は百済救援のため援軍を派遣し、兵糧供給のため各地の屯倉を整備しました。しかし欽明18年から欽明21年(560年)までは空白です。日本書紀のこのあたりは百済系の史料を流用しており、百済での戦いの様子が延々と語られています。

欽明21年(560年)、新羅から使者が来て朝貢したので、倭国は手厚く饗応し、常より多くの賜物を与えました。欽明22年(561年)、新羅から再び使者が来て朝貢しましたが、前年よりもてなしが劣っていたので怒って帰ってしまい、別の使者が新羅から遣わされます。しかし今度は「新羅の使者より百済の使者が優遇された」として帰りました。そして欽明23年(562年)、新羅は「任那の官家」を滅ぼしてしまいます(欽明21年とも)。

これは新羅が大加羅を滅ぼし、安羅に駐屯していた倭国の官吏や軍隊が撤退し、南韓における倭国の拠点がなくなったことを言います。この頃の任那は加羅・安羅・斯二岐・多羅・率麻・古嵯・子他・散半下・乞滄・稔礼の十国から成っていた、と日本書紀には書かれています。

『三国史記』新羅真興王紀及び雑志地理新羅には、こうあります。

二十三年(562年)…九月、加耶叛。王命異斯夫討之、斯多含副之。斯多含領五千騎先馳、入栴檀門、立白旗。城中恐懼、不知所爲。異斯夫引兵臨之、一時盡降。論功斯多含爲最、王賞以良田及所虜二百口。斯多含三讓、王強之、乃受。其生口放爲良人、田分與戰士、國人美之。(真興王紀)
咸安郡、法興王(真興王?)以大兵滅阿尸良國、一云阿那加耶、以其地爲郡。…高靈郡、本大加耶國。自始祖伊珍阿豉王、一云內珍朱智、至道設智王、凡十六世五百二十年。眞興大王侵滅之、以其地爲大加耶郡。(雑志地理新羅)

加耶は高霊の大加羅です。百済・倭国と連合して新羅・高句麗と戦っていた大加羅はついに滅び、任那は新羅に征服され、朝鮮半島には百済・新羅・高句麗の三国だけが残りました。百済は倭国の友好国ですし、倭人が全員消え去ったわけでもありませんが、倭国の影響力は大きく減衰したわけです。

まあ391年より前には倭国は半島に進出していませんし、それ以前に戻っただけと言えばそうですが、既に倭国には多くの渡来帰化人や海外の文物・家畜が定着し、畿内や支配層の文化も相当変化していました。半島側は百済・高句麗が弱体化し、新羅が大きく力を伸ばしました。

チャイナの動乱

この頃、チャイナは激動の時代でした。548年には梁で侯景の乱が勃発し、建康を反乱軍が包囲します。侯景は北魏が分裂した東魏から亡命した将軍で、追い詰められて反乱した蛮人に過ぎませんでしたが、梁は長年の平和の間に腐敗して経済格差が開き過ぎ、貧民や地方の軍閥が大挙して反乱に参加したのです。封鎖された建康は人が食い合い死体が転がる地獄絵図となり、敬虔な仏教徒であった武帝蕭衍は侯景に幽閉されて、549年に餓死します。やはりブッダは寝ています。

侯景は新たに傀儡の皇帝を立てると、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事の称号を自らに与えさせ、さらに漢王となります。551年には梁から禅譲を受けて漢の皇帝に即位しますが、552年に王僧弁・陳霸先らに殺害され、梁は復活しました。しかし陝西の西魏はこの混乱に乗じて蜀を奪い、湖北で自立した梁の皇族を属国(後梁)の天子として、大きく勢力を広げました。557年には陳霸先が梁から禅譲を受け、南朝最後の王朝・を建国します。

華北では534年に北魏が東西分裂した後、西魏宇文泰東魏高歓とその一族が争い、550年に東魏は禅譲によって滅び、高氏の斉国(北斉)となります。両国はモンゴル高原の遊牧帝国・柔然と婚姻関係を結び、貢納して自国に味方するよう呼びかけていましたが、552年に柔然の従属部族であった突厥(テュルク)が西方で反乱を起こし、555年に柔然を滅ぼして併呑します。突厥は西魏(556年から北周)及び北斉を従属させ、中央アジアに進出し、ユーラシアの東西にまたがる広大な帝国を形成して行きます。

749px-北周・北斉・陳・後梁

チャイナはまたも三国に分裂したわけですが、北斉は華北平原を領有しているため面積の割に北周より強国で、契丹・高句麗など東方諸国は主に北斉へ朝貢していました。陳は蜀・湖北などを失い、南朝の中では最も弱体化していますが、爛熟した南朝文化の残りが華麗に咲き誇り、南海を通じて東南アジアやインドとも交易を行っています。

海東朝貢

こうした動乱の中でも、朝貢使節は各国へ赴いています。北斉書・陳書には海外に関する列伝がないので、唐代に北朝と南朝の史書を合わせて作られた『北史』『南史』を参照します。

太清二年(548年)、延卒、詔其子成襲延爵位。(南史夷貊伝東夷高麗条)
延死、子成立。訖于武定已來、其貢使無歲不至。大統十二年、遣使至西魏朝貢。及齊受東魏禪之歲、遣使朝貢于齊。齊文宣加成使持節、侍中、驃騎大將軍、領東夷校尉、遼東郡公、高麗王如故。天保三年、文宣至營州、使博陵崔柳使於高麗、求魏末流人。敕柳曰「若不從者、以便宜從事。」及至不見許。柳張目叱之、拳擊成墜於床下、成左右雀息不敢動、乃謝服、柳以五千戶反命。成死、子湯立。乾明元年、齊廢帝以湯爲使持節、領東夷校尉、遼東郡公、高麗王。(北史四夷伝高麗条)

武定末年は550年で、同年5月に東魏は北斉に代わります。この年に高句麗は北斉へ朝貢し、高句麗王の高成(陽原王)は使持節、侍中、驃騎大将軍、領東夷校尉、遼東郡公、高麗王に冊立されました。大統は西魏の元号で、大統12年は546年です。高句麗は契丹・柔然を経由して西魏に(当初は梁にも)使者を派遣していたようですが、これ以後は北斉のみに服属します。

天保3年(552年)、北斉は崔柳を高句麗へ派遣し、魏末に亡命した中国人の返還を求めました。王は拒みましたが、崔柳は怒って王を殴りつけ、5000戸を返させたといいます。当時の高句麗は百済に攻撃されて弱体化しており、すっかりナメられていました。557年には高句麗の旧都・丸都城で反乱が起き、同年に鎮圧されたものの、559年に陽原王高成は薨去します。跡を継いだ高湯(平原王)は乾明元年(560年)に北斉から冊立されました。

太清三年(549年)、遣使貢獻。及至、見城闕荒毀、並號慟涕泣。侯景怒、囚執之、景平乃得還國。(南史夷貊伝東夷百済条)
及齊受東魏禪(550年)、其王隆(明)亦通使焉。淹死、子餘昌亦通使命于齊。(北史四夷伝百済条)

百済は梁へ朝貢していましたが、使者は偶然侯景の乱に遭遇して投獄され、552年に侯景が平定されると帰国できました。北斉にも朝貢しています。しかし陳に朝貢したとは書かれていません。『三国史記』には威徳王14年(568年)と24年(578年)に陳へ朝貢したとあり、17年(571年)に北斉(高斉)から使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王に冊立され、翌年には使持節・都督東青州諸軍事・東青州刺史を加えられています。

新羅については、『南史』『北史』には梁の普通2年(521年)の朝貢以後、隋の開皇年間に真平王が朝貢するまで記録がありません。『三国史記』には真興王25年(565年)と33年(573年)に北斉へ、28年(568年)から32年(572年)まで陳へ、それぞれ朝貢したと記されています。

しかし、倭国はこの間に一度もチャイナへ朝貢していません。公的な使節を派遣せず、私的な交易や百済を介しての取引にとどめていたようです。502年に梁が建国された際、倭王武が征東大将軍に進号されてから、600年に最初の遣隋使が派遣されるまで100年近く。502年の倭使がなく、479年が最後とすれば120年に渡り、倭国からチャイナへの使者は絶えていたのです。

さて562年の任那(大加羅)滅亡により、倭国は半島における直接の拠点を喪失します。これを回復するため、欽明天皇は新羅討伐の兵を起こします。

◆誰為◆

◆鐘鳴◆

【続く】

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