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【つの版】邪馬台国への旅17・親魏倭王01

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭奴國王が後ろ盾としていた後漢は滅び、女王卑彌呼を統合の象徴とする新生倭國のケツモチであった遼東公孫氏も魏に滅ぼされました。しかし、折よく倭の使者が公孫淵の滅亡直前に帯方郡に来ていました。倭がチャイナ本土の大国・魏と友好関係を結ぶチャンスが到来したのです。

◆うぉーあいにー◆

◆言えるかな◆

難升米

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
景初2年6月(西暦238年7月頃)、倭の女王が大夫の難升米らを遣わして帯方郡に詣でさせ、(魏の)天子に朝献(朝廷で謁見して貢物を献上する)ことを求めた。帯方郡の太守である劉夏は、官吏と将校を遣わして、彼らを京都(魏の都・洛陽)へ送り届けた。

状況は前回と変わっていません。ここに来るまでの過去の状況を解説していただけです。難升米が何者なのかは次回やります。

状況判断

倭人は魏と公孫淵の対立を、当然知っていたでしょう。魏から何度も圧力をかけられていますし、魏も周辺諸族へ使者を送って「公孫淵や呉につくな、魏についた方が得だぞ」とプロパガンダしていたはずです。司馬懿が遼東に着くなり高句麗王が援軍を派遣したぐらいですし、帯方郡と取引している韓人や倭人が知らないのも不自然です。高句麗が孫呉の使者を「遠いから無理だ」と斬ったのなら、魏の方が良さそうだという程度の判断は働いたはずです。しかも倭使の目の前では帯方郡が魏に降伏し、韓人の酋長たちが次々と魏に靡いています。どう見ても公孫淵につく利益も方法も皆無です。

伊都から末盧・一支・對馬・弁韓を経て帯方郡まで片道半月余りとします。伊都から邪馬臺國までは600km以上あり、瀬戸内海や日本海経由でも潮流や陸路を鑑みて半月以上はかかります。狼煙ぐらいはあったとしても、即座に情報が伝わる距離ではありません。6月に帯方郡に着くなら伊都を5月、邪馬臺國からならば4月ぐらいに出発しているはずで、帯方郡や楽浪郡の情報が届くにはやや遅いかも知れません。しかし商人同士の情報網は結構素早く、書簡や伝言で相当な速度で伝わっていた可能性はあります。

ただ、この時の卑彌呼から帯方郡への使者は大夫の難升米と都市牛利の二人で、貢物は男生口4人、女生口6人、斑布二匹二丈だけです。後漢へ朝貢した帥升は生口を160人も連れていましたし、魏へ朝貢に行こうと初めから計画していたなら、辰砂とか真珠とか豪華なものを準備していたとは思います(帯方郡へ贈るにしてもしょぼい気はします)。毎年の帯方郡行きの使者だった難升米と都市牛利が「これはチャンス」と劉夏に取り入ったか、卑彌呼や伊都國王や一大率が最初から魏につくつもりで送ったのかは微妙なところです。ともあれ、難升米と都市牛利は帯方太守劉夏に出会ったのです。

倭人をプロデュース

劉夏は驚き、かつ喜んだでしょう。倭人の王が後漢の光武帝から金印紫綬を賜ったり、安帝に朝貢したりしてから、百年以上の歳月が経過しています。外に孫呉や蜀漢という大敵がおり、後漢より狭い範囲しか統治していない魏にとって、遠方の蛮夷から「徳を慕って朝貢に参りました」と使者を送って来るのは内外へ権威を示す絶好の機会です。

また遼東公孫氏を打倒し孫呉を牽制するために、東南の海の彼方にあるという大国・倭國の存在は使えます。鬼道を使う女王が治めているとか、辰砂を産出するとか聞けば、なにやら神秘的な感じも受けます。公孫淵を倒しただけでなく、これまで百年以上朝貢に来なかった謎の大国の使者を連れてきたとなれば、劉夏だけでなく上役たる司馬懿の評価も高まります。

難升米らもいちいち伊都國の王や一大率と連絡を取り合っていたかは不明ですが、劉夏とダンゴウして倭國をアピールする計画が固まったのでしょう。司馬懿は8月まで襄平で指揮を取っており、倭國のことも劉夏からの使者が伝えたはずです。洛陽への報告は戦勝報告とタイミングを合わせた方が縁起がいいですし、8月23日に公孫淵が死ぬとすぐ早馬が送られたでしょう。

丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
(明帝紀)

明帝紀によると、洛陽に公孫淵の首が到着したのは「丙寅」の日で、これは9月10日にあたるそうです。死から17日ほど後になりますが、腐らないよう塩漬けにしてあります。4000里もとい3600里を17日となると、1日に212里(92km)を駆けることになりますね。道路沿いの駅舎で馬を換えて飛ばせば(駅伝)、当時でもそれぐらいは可能です。司馬懿(司馬宣王)はまだ遼東で戦後処理しており、劉夏や倭使も洛陽には来ていません。

洛陽への帰路

冬十一月、錄討淵功、太尉宣王以下增邑封爵各有差。(明帝紀)

論功行賞は同年冬11月(新暦12月頃)に行われました。しかし司馬懿はまだ洛陽に帰り着いていません。遠征から戻るまで1年だと宣言しておきながら遼東に着くのに半年かかり、戦闘は3ヶ月弱で済んだものの、休息と戦後処理を8月末から60日取ると10月末。100日どころか60日で帰らないと間に合いませんね。遼東にまだ司馬懿がいたら、4000里もとい3600里を60日だと1日60里(26km)。相当の強行軍です。流石に帰路にはあったでしょう。

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帰りは急いだとしても、10月初め(新暦11月)には遼東を出発していないと間に合いません。冬場は道が雪に閉ざされます。日に40里で30日なら11月には1200里(520.8km)、河北省唐山市(遼西郡か右北平郡)ぐらいまでは来ていたでしょう。もう少し急いで日に50里(21.7km)なら、30日で1500里(651km)。北京(幽州の州都・燕国薊県か涿郡)に到達し、そこで論功行賞を行ったということになります。北京から太行山脈の東麓を通って南下し、黄河を渡り、西に進んで洛陽までは2100里のはずですが、Google Mapsで測ると800km(1843里余)。1日50里のペースで37日ほどかかります。年内にギリギリ間に合うかどうかですね。急ぎましょう。

さて、劉夏や倭使はどうしていたでしょうか。劉夏自身は帯方太守としての任務がありますから、任地を離れて洛陽や遼東、北京へ行くわけにはいきません。官吏と護衛をつけて洛陽へ送り届けるには、楽浪郡や遼東郡を陸路で進むより、もと来たように海路で山東半島へ渡るのが楽です。帯方県(ソウル)から帯水(漢江)を西へ下り、黄海へ出て成山角まで450km。8日もあれば着きます。東莱郡(威海市と煙台市)、北海国(濰坊市)、青州治所の斉国臨淄県(淄博市)、済南国(済南市)まで来て、黄河の南岸沿いに南西へ向かい、兗州陳留郡(開封市)、河南尹滎陽県(鄭州市)を経て洛陽までは1074km(2400里余)です。彼らは軍隊でもないので1日50里で進んでも48日、帯方郡から2ヶ月もかかりません。秋のうちには到着します。

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しかし、総大将の司馬懿を差し置いて倭使を洛陽へ勝手に送り届けるわけにはいきません。派閥というものがあります。公孫淵を平定したことで、その領土であった郡県、烏桓や東夷諸族、遠征軍が利用した施設などは司馬懿をパトロンとして頂くことになります。遠征軍に加わった将兵は言うまでもありません。青州へ渡海させたのち、孫呉との国境から離れたあたりか洛陽近郊で待機させて安全を確保したでしょう。11月の論功行賞に際しては、倭使のことが各方面へ伝達・説明されたはずです。

明帝崩御

ところが、ここで予想外の事態が起きます。12月乙丑(8日)、36歳の明帝曹叡が病に罹り重篤化したのです。曹叡は召し抱えていた寿春(安徽省淮南市寿県)出身の女呪い師に祈祷をさせ、霊水を飲みましたが効果はなく、彼女は殺されました。曹叡の息子らみな早死にし、皇族の斉王曹芳(曹丕の弟曹彰の孫という)を跡継ぎとしていました。彼は8歳でしかなく、曹叡は叔父の燕王曹宇(妻は張魯の娘)を後見人として指名し、大将軍に任命しました。また皇族の夏侯献・曹肇・秦朗らを補佐役に任命します。

しかし側近の劉放孫資は彼らと仲が悪く、彼らが政権を握れば失脚してしまいます。そこで必死に曹叡を説き伏せて僅か4日で彼らを罷免させ、曹爽(曹真の子)と司馬懿に後事を託させます。曹真は曹操に息子同然に扱われましたから、曹爽は曹叡と同世代で、還暦を迎えた司馬懿とは親子ほども年齢差があります。劉放と孫資は曹操以来の文官ですし、司馬懿の派閥に属していたのでしょう。司馬懿も遠征中に敵対派閥が実権を握っていたでは困りますから、宮中・朝廷との調整役は必須です。

年末には曹叡は危篤状態に陥り、劉放と孫資は焦って司馬懿へ洛陽に急ぎ戻るよう連絡します。司馬懿は河内郡まで戻っていましたが、駅伝馬を利用して全速力で単身洛陽へ帰還し、景初三年正月丁亥朔(元日)に曹叡の臨終の床へと駆けつけます。曹叡は司馬懿に後事を託すと同日に崩御しました。あまりにタイミングが良いので実際その時まで曹叡が生きていたかは怪しいですが、公的にそういうこととされ、司馬懿と曹爽が幼い皇帝を補佐して魏を治めることになりました。曹叡は正月癸丑(27日)に高平陵へ葬られます。

さて、こんなにドタバタした状況で、瀕死の曹叡はのんきに倭人の使者を迎えることができたでしょうか。魏志倭人伝には「その年の12月、詔書を倭の女王に報せて曰く」とありますが、明帝紀には記載がありません。魏志の本紀で倭王卑彌呼が現れるのは、三少帝紀の正始4年(243年)に「冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とあるのが唯一の記事です。仮に拝謁したとしても本人は病臥しており、劉放や孫資らが承った程度でしょう。「倭の女王が鬼道で衆を惑わしている」とか聞いたら、例の女呪い師の件を思い出して怒り、病状が悪化しかねません。11月の論功行賞で報告は聞いているでしょうから、倭人の使者のこと自体は知っていたとは思いますが。

司馬懿にしても、業務の引き継ぎやら皇帝の喪儀やら新皇帝の即位式やらで超忙しい中、のんきに倭使と話し合ってはいられません。しかし自分の功績をアピールする手駒のひとつではありますから、落ち着くまで洛陽に住まわせ、役人に命じて幼い皇帝に謁見するセレモニーの準備はさせたでしょう。難升米や都市牛利は都で先進文明に触れ、根掘り葉掘り倭に関する情報を聞き出され、天子の御前での振る舞い方を練習させられます。魏から倭の女王に下賜する贈物が集められ、ありあわせのものばかりもアレなので、特別に紀年銘入りの銅鏡も作らせたでしょう。

日本で出土した魏紀年銘鏡は青龍三年のを除いて現在8面あり、「景初三年」が2面(大阪府和泉市和泉黄金塚古墳出土の画文帯同向式神獣鏡と島根県雲南市加茂町神原神社古墳出土の三角縁同向式神獣鏡)、「景初四年」が2面(京都府福知山市広峰15号墳及び宮崎県西都市持田古墳群出土の斜縁盤龍鏡[同笵])、「正始元年」が4面(山口県周南市後家老屋敷古墳、兵庫県豊岡市森尾古墳、群馬県高崎市柴崎蟹沢古墳、奈良県桜井市桜井茶臼山古墳(銅鏡片)出土の三角縁同向式神獣鏡[同笵])です。宮崎県以外は九州の外で出土していますね。

倭使がこれらを受け取ったのだとしたら、魏の天子に謁見したのはいつなのでしょうか。

元号問題

倭人が帯方郡に来たのは景初2年6月。洛陽で天子に謁見したのは景初2年の12月か、景初3年の正月か、その翌年(正始元年)の正月です。明帝が崩御して天子が代替わりしているのに、元号は変わらなかったのでしょうか。それに魏紀年銘鏡には「景初四年五月丙午」という紀年銘のもありますが、魏志によれば景初四年は存在しません。洛陽ではなく倭や帯方郡など辺境で作られたため、元号が変わったと伝わるのが遅かったのでしょうか。

近現代の日本では天皇が崩御か退位すると、その日のうちに元号が変わります(即日改元)。平成から令和、昭和から平成、大正から昭和も即日改元です。これは日本が明治以来「一世一元(天皇在位中は元号をひとつだけとする)」の制度でやってきたからですが、江戸時代以前は災害とか瑞祥とかを理由として在世中にちょくちょく変わっていました。元号が発祥したチャイナでも、明朝が一世一元の制を定めるまでそうでした。

天子が代替わりする時も変わります(即位改元)が、本来は即座には元号を変えません。ある年に天子が崩御したら、その年のうちはその元号を使い続け、年を越(踰)して次の年の正月が来たら改元するという「踰年改元」です。これは手続きの煩雑さや新皇帝の即位アピールもありますが、儒教理念では先帝の崩御後足掛け三年は喪中期間ですし、元号をすぐに変えると先帝の崩御を待っていたみたいで失礼だ、というマナー講師めいた理論があったせいです。日本も江戸時代までそうしています。

魏志三少帝紀の斉王紀・景初三年十二月条にこうあります。

十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正。雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正、其以建寅之月為正始元年正月、以建丑月為後十二月

「後十二月」とはなんでしょうか。こう解釈もできます。明帝は正月元日に崩御したため、その年はまるまる「景初3年」のままです。次の正月が来れば改元される予定ですが、元日が命日なので一周忌の祭儀があり、縁起が悪いので景初から「正始」と改元されたのは翌月でした。正月は「景初4年正月」となりますが、正始元年に正月がないとアレなので2月を臨時の正月とし、「暦をこれまでの殷正(建子=冬至正月)から夏正(建寅=立春正月)に戻す」と称して景初3年の12月を1月増やし、「景初3年の後十二月」ということにしました。景初4年正月は存在したのに、記録から削除されたのです。改元前の景初3年に「まだ次の元号が決まってないが、一応4年にしとこう。ヨシ!」という現場猫的見通しのもとで作られたのでしょうか。どうせ蛮夷に贈る物だからヨシとします。しかし景初4年5月はどうにもおかしくなります。あるいは景初3年と4年を間違えたのでしょうか。

このあたりは暦を巡ってめんどくさい議論があり、つのの手に負えないので適当に流します。景初四年五月鏡が非洛陽製でも大勢に影響はありません。

この間に倭使が倭地まで往来していたら、急いでも往復数ヶ月はかかりますから、リハーサルをする暇もありませんし、危険な航路で遭難でもされたら台無しです。難升米らは洛陽に一年間滞在し、事情を知らせる文書を持った使者が帯方郡へ送られ、倭地に伝達報告されたのでしょう。文書は伊都國の一大率によって検査され、順繰りに伝達されて邪馬臺國の卑彌呼のもとまで届くわけです。帯方郡を出発する時も送ったでしょうが。

長年後ろ盾としていた遼東公孫氏が滅亡するという大事件と、それを滅ぼしたチャイナ本土の大国である魏と友好関係が結べるという大ニュースですから、難升米の一存で決められるわけもなく、倭國の中枢部まで報告されないわけがありません。卑彌呼も男弟も豪族たちも大喜びしたでしょう。承諾の報告書が作成され、洛陽まで届く頃には半年経っているわけです。

◆平◆

◆成◆

引き続き、卑彌呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬が贈られる過程を見ていきます。

【続く】

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