見出し画像

【つの版】大秦への旅01・烏弋山離

ドーモ、三宅つのです。邪馬台国・倭国・記紀神話・徐福伝説をざっと見てきましたので、今回から繋がりで大秦を目指します。

大秦とは何か? それはチャイナの史書に登場する、西の彼方の謎の大国です。描写からして古代ローマ帝国のことと思われるのですが、なぜチャイナ(秦)の遥か西にあるローマが「大秦」と呼ばれるのでしょうか。唐代には景教(ネストリウス派キリスト教)が西方からチャイナに伝来し、長安には大秦寺や景教碑が建立されましたし、日本の秦氏や徐福、ユダヤ人とも関係があるとも言われます。日本人とユダヤ人は同祖だという怪しげな説も古来唱えられました。なぜそうした説が唱えられ信じられているのでしょうか。そのへんの実態について東西の史料からざっくりと調べます。

あくまで「ドシロウトが推測した」だけですので、完全な断定はしません。違っていても一切責任は持てません。あなたが古典的なユダヤ陰謀論日ユ同祖論始皇帝ユダヤ人説爬虫人類説を熱狂的に信仰していても押し付けることはしません。コメントに反論を綴ったりDMを送りつけたりしないで下さい。つのはこれをここに置いておくだけです。あなたの頭で考えて下さい。あなたの家族や知人と論争して疎遠になっても、つのは知りません。

覚悟はいいですか? では、ひとつひとつ噛み砕いて行きましょう。

◆西◆

◆遊◆

大秦記録

チャイナの史書において最初に「大秦」が登場するのは、『三国志』魏志の烏丸鮮卑東夷伝…に裴松之(372-451)が注釈としてつけた『魏略』西戎伝です。陳寿は例の事情により西域に関する列伝を立てなかったため、裴松之が三国時代の西域について補完しようと引用したわけです。そこには隴西の異民族に始まり、西の大海に至る諸国・諸民族が簡略に記されています。

魏略を編纂した魚豢は魏の後期の人で、陳寿より前に生きていたであろうとは思われますが定かでありません。裴松之は魚豢や陳寿より遥か後、東晋の末から劉宋の時代に生きた人物で、元嘉6年(429年)に劉宋の文帝の勅命を受けて『三国志』に膨大な注釈を施しました。

同時代、范曄(398-445)は様々な先行史料をもとに『後漢書』を編纂しました。その中に「西域列伝」があり、大秦についても記されています。魏略から200年後の編纂ですが、後漢代に初めて大秦の記録が現れたようです。

大秦国に至るまでには何があったのでしょう。『史記』にも『漢書』にも、四書五経にも諸子百家にも呂氏春秋や山海経や淮南子にも記述がない以上、この2つの記録が基本史料となります。まず大秦を目指しましょう。

隴西河西

『魏略』西戎伝で最初に書かれるのは「氐(てい)」という人々です。彼らは漢中盆地の西の谷間(低地)におり、前111年に漢の武帝が武都郡(甘粛省隴南市)を設置すると山々の谷間へ逃げ込みました。後漢末には阿貴や千萬らが部族を率いて馬超の乱に従い、夏侯淵に撃破されます。その習俗は羌族に類似し辮髪を結いますが、漢姓を名乗り、農耕や牧畜を行います。

要は羌族と同じチベット系民族で、五胡十六国時代には成漢・前秦・後涼・仇池などの国家を建てました。特に前秦は一時華北全土を統一しています。なお『山海経』海内南経では、なぜか下半身が魚の姿で描写されます。

次に記されるのは貲虜(しりょ)といい、匈奴の奴隷(貲)たちが逃亡して金城(蘭州)・武威・酒泉の北、黒水(エチナ川)と西河(黄河)の間に住み着いたものです。彼らは砂漠地帯で遊牧を行い、しばしば漢の領土を襲撃して勢力を広げました。丁令(テュルク)や羌族など雑多な種族が混在しており、魏の時代にも交易路を悩ましていたといいます。

敦煌や西域の南の山中(青海省・崑崙山脈)は、西は葱嶺(パミール高原)に至るまで羌の諸族が分布しています。『後漢書』に「西羌列伝」があり、神代の昔からの西戎・羌族について詳しく記されていますが、この地域に住むのは月氏の余種の葱茈羌、白馬羌や黄牛羌などです。

漢や魏の勢力は、これら北と南の蛮族に挟まれた狭い地域、いわゆる「河西回廊」にのみ細々と存在しました。陝西盆地の西、六盤山(隴山)より西を隴西といい、さらに奥地の黄河上流域から西を河西と呼びます。夏殷周の三代はこの地域に支配権を及ぼせず、秦の時代にようやく隴西の西戎を征服して郡県を置きましたが、河西以西には月氏がいました。

前3世紀末から前2世紀前半、匈奴の冒頓単于は月氏を駆逐してこの地域を奪い、マンチュリアからタリム盆地に至る広大な地域を征服しました。匈奴は漢をも服属させ貢納を得ていましたが、前2世紀末に漢の武帝が河西回廊を攻め取って郡県を設置し、タリム盆地やフェルガナ盆地(大宛)、バクトリア/トハリスタン(大月氏)にまで使者を派遣しました。ここにチャイナと「西域(中央ユーラシア世界)」との、直接の交通が大きく開けたのです。これを俗にシルクロード(絹の道)といいますが、それ以前から匈奴は漢からの輸入品を北方ルートで西方へ売りさばき、大いに儲けていました。

大月氏国

『後漢書』によれば、武帝の時に内属した西域は36国あり、使者や校尉を置いて管轄させましたが、宣帝は都護と改め、元帝は戊校尉と己校尉を置きました。哀帝・平帝の時には相争って55国となり、王莽が帝位を簒奪すると背いて匈奴に再び服属しました。匈奴は重税をかけたので、光武帝が即位すると再び漢に服属しましたが、都護はまだ置かれませんでした。

匈奴が衰弱すると西域諸国は互いに争い、後漢の明帝は73年に匈奴を討って伊吾盧(ハミ)を取り、西域都護を置いて西域との交通を再開しました。しかし75年に明帝が崩御すると呼び戻され、将軍の班超は僅かな手勢を残してとどまります。彼は周辺諸国と同盟して莎車国(ヤルカンド)を討ち、大月氏(クシャーナ朝)と手を組んで西域を平定したので、91年に西域都護に任命されました。97年には甘英を西海まで派遣したといいます。やがて老齢のため102年に洛陽に戻り、後漢は107年に西域都護を廃止しました。

西域内属諸国(タリム盆地)は、玉門関から葱嶺(パミール高原)までは東西6000余里(1里434mとして2604km)、南北は1000余里(434km)あり、東北は匈奴・烏孫に接し、南北は大山に挟まれています。葱嶺を抜けて西へ行くには南北両道があり、南道は大月氏・安息へ、北道は大宛・康居・奄蔡へ通じています。

『魏略』によれば、魏代には西域諸国は20国にまで統合が進んでいました。敦煌の玉門関から葱嶺までは、南の山沿いに進む南道、天山山脈の南麓を楼蘭・亀茲を経て進む中道、高昌(トルファン)を経て山の谷間(ジュンガル盆地)を抜け、途中で南に折れて亀茲へ合流する新道があったといいます。

DpOfKo8WwAAuWx8 - コピー

遊牧民はそのままウルムチやイリを経てバルハシ湖の南に抜け、タラスを経てソグディアナへ向かっていました。シル川やアム川を下ればアラル海・カスピ海に出、ヴォルガ川・ドン川を利用して黒海へ出ますし、カフカス山脈の南北も遊牧民の世界です。カスピ海南岸は緑豊かなヒュルカニア(ギーラーン)地方で、イラン高原に交易路が繋がりますし、ソグディアナからバクトリアへ向かえばインドまで通じています。中央ユーラシアには巨大な内陸の「水の道」も備わっているのです。

ダウンロード - コピー

南道を西へ行くと、鄯善(楼蘭、クロライナ)国、於寘(于闐、コータン)国に属する諸都市があり、パミールの南を抜けると大月氏(クシャーナ朝)が存在します。漢魏の時代、大月氏は罽賓(けいひん、ガンダーラやカシュミール)、大夏(トハリスタン、バクトリア)、高附(カーブル)、天竺(インド北部)を服属させ、大帝国を築いていました。

ダウンロード - コピー (2)

大月氏・クシャーナ朝については既に触れました。

魏略はここから天竺方面へ進み、浮屠(ブッダ)についても記していますが省略します。仏教は後漢代には大月氏国から伝来していたようです。

安息

天山山脈南麓の中道を進むと、焉耆(アグニ)国や亀茲(クチャ)国、疏勒(カシュガル)国に属する諸都市が続いています。その西に大宛(フェルガナ)、安息(アルサケス朝パルティア帝国)、條支、烏弋が続いています。大宛と安息とは武帝の時に張騫が報告していますが、條支や烏弋とはどこでしょうか。また、距離についてはどうでしょうか。

1世紀末に成立した『漢書』西域伝によると、安息国は王都が番兜城(パルティア)にあり、東の国境の[女為]水(ワフシュ=オクソス=アム川)までは長安から1万1600里(5034.4km)、王都から数千里離れています。北は康居(カザフスタン)、東は烏弋山離と大月氏(クシャーナ朝)、西は條支に接し、大小数百の城(都市)を属国とし、領土は方数千里で、西域では最も大国であると記されています。この国については後でも述べます。

『後漢書』では王都を和櫝城とし、洛陽から2万5000里(1万850km)離れているとしますが、遠すぎるので1万5000里(6510km)の誤記でしょう。安息国の北は康居、南は烏弋山離に接し、東界を木鹿(トルクメニスタンのメルブ/マルグ)城といいます。これを小安息といい、洛陽から2万里(1万里)離れているといいます。

烏弋山離

また烏弋山離国は長安から1万2200里(5294.8km)のところに王がおり、漢の西域都護の治所である烏塁城(バインゴリン自治州ブグル県)までは60日かかるといいます。人口や軍勢の多い大国で、東は罽賓、北は撲桃(パルティア)、西は犂軒・條支に接しています。土地は暑熱かつ草深く平らで、産物や習俗は罽賓と同じく、獅子や犀がいると記されています。

パルティアの南・東でガンダーラの西にある広い平地というと、アフガニスタン南部のカンダハール州付近でしょう。ここはゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』ではハラフワティ、古代ペルシア語碑文でハラフワティシュと呼ばれ、インドの女神サラスヴァティ(弁才天)と同語源で、平野と内陸河川に恵まれた肥沃な盆地です。

画像1

アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロス大王は、この地を「アラコシア」とギリシア訛りで呼び、アラコシアのアレクサンドレイア(Alexandreia Alachosias)という殖民都市を建設し、ギリシア人を住まわせました。前305年、大王の東方領土を受け継いだセレウコスは、マウリヤ朝マガダ国の王チャンドラグプタと交渉してアラコシアを割譲しますが、ギリシア人は住み続け、ギリシア語とギリシア文字を使用しました。

やがてマウリヤ朝が滅ぶと、この地は同じギリシア人が支配するバクトリア王国、及びそこから分離したインド・グリーク王国の支配下に入りますが、前2世紀にこの王国も滅び、北方遊牧民のサカ族(スキタイ)に征服されます。これがインド・スキタイ王国で、1世紀頃クシャーナ朝に圧迫され南下するまで繁栄しました。

烏弋山離(うよくさんり、上古音:qa: lɯɡ sre:n rels)とは、この「アラコシアのアレクサンレイア」の訛りに違いありません。王国の首都はシガル、マトゥラーなど各地に置かれましたが、肥沃なアラコシアにはギリシア人の勢力もまだ残っており、両者が混交した文化が栄えていたようです。その後この都市はクシャーナ朝、サーサーン朝、イスラームの征服を受け、アレクサンドレイアが訛ってカンダハール(Kandahar)となったのです。

魏略を見ると「烏弋は一名を排特(上古音:brɯːl dɯːɡ)という」とあります。これをギリシア語のプロフタシア(Prophthasia)とし、カンダハールの西に位置するアフガニスタンのファラー州にあてる説もあります。なおガンダーラはヴェーダや古代ペルシア語の碑文にもある古来の地名で、アレクサンドロス大王の名とは無関係です。

◆歴◆

◆山◆

大宛(フェルガナ)、安息(パルティア)、烏弋(カンダハール)の位置関係はわかりました。では、條支はどこにあるのでしょうか。そして大秦は。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。