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文章から逃げる人たち



はじめに

れーや氏です。ガスのお仕事をしていたり、Xで好き勝手なことを呟いたり、気が向いたらnoteを書いたりもするかもしれない人間です。

私は仕事上多数の人間と関わります。社内の人間や多数の顧客とです。
これまでの仕事では、それなりの数の文書を作って顧客に配布し、それらの電話対応をしたり、現場でも説明したりしてきました。
当然、社内でも時と場合に応じ、対応ルールを作ったりマニュアルを作ったりなど、様々な機会で文章を作っては、それについて人に説明してます。

するとわかるんです。
多数の人が言語を使って生きているのですが、文章どころか、1つの文もしっかり読めていない事があります。
識字率は当然高い現代日本ですが、文字が読める事と文章が読める事は一致しません。書いている事とその本質を理解して、初めて文章が読めるという事になりますが、それが出来ていない。
そういう事はどこでも起きているのです。

文と文章、文書の違い

ところで、文と文章と文書ってなんでしょう?
まず文とは、一文。読点で終わる1つの言葉の繋がりです。
そして文章とはこれらが集まった集合体であるわけです。
そして文書とはそれらが書いてある書類です。

人は、読まない。

さて、ここで質問ですが貴方は何かを買った時に説明書は読みますか?
まぁ正直言いますが、こんなnoteを書いておいても私は読みません。
ただし使い方は総当たりでチャレンジし、それでも困ったら読みます。
読まずに問い合わせようなどとは、あまり考えません。

システムの開発設計や、サポート対応してる人達はよく分かるのではないかと思いますが、人はマニュアルを作ってもさっぱり読まないのが現実です。
答えはそこに書いてあるんです。でも読もうという気はない。
すぐに答えが見つからない事に耐えられない。聞けば早い。
など理由は探せばいくらでもありますが、大抵非常に短絡的な理由です。

さて分厚いマニュアルではなく簡単な説明文書であればどうでしょう?
A4の紙で1枚の案内文。
お客様にお知らせを配るとします。
内容は大まかに言うと、組織変更に基づき新しく支払い手続きをしないとガスの供給が出来ませんという文書です。

これらを供給している顧客に配った結果ですが、想像が付く方もいるでしょうが、1回目の文書配布ではほとんど連絡すら来ません。
まぁチラシは読まずに捨てるとか、色々理由もあるんでしょうけど、自分が契約している会社の会社印がついてて重要書類と明記されててもそんなもんです。そもそも人は文章を読むのが面倒なんです。

人は、読めない。

どんな人にも必要に駆られて文章を読む機会があると思います。
例えば社内文書です。

昔の話ですが、新システムを導入して旧システム廃止する際の事です。
当然、導入先の会社から導入資料が配布されました。
見る事になる全ての画面のコピーがついてて、私からすると記載の番号に沿って指示通りにただボタンを押していくだけでシステムの初期設定ができるという、内容は全く難しくないものです。

そもそもユーザーにやってもらう初期設定なのですから、難しい内容なわけがない。ただ、それなりの枚数はありました。
皆、仕事なので、一度は開いたと思います。
少し読み込めば、大した内容じゃないこともすぐわかったはずです。
でも結果としては多数の人から導入を担当していた自分の所に電話が来て、結局やってくれと言う話になり多数の営業所に出張して私がやりました。

簡単な内容の文章でも、数量が増えただけで人は読めないのです。

人は、好き勝手に読む。

人は、生きる上で様々な文、文章と出会います。
書類やメール、そしてライン、なんならXのようなSNSもそうです。
でも、書いてあることを人は本当に読めているんでしょうか。

貴方も見た経験がありませんか?
SNSでバズった文章に大して来る数々の反応やコメント。
その中にはもちろん否定的な反応もあります。
でも別にその文章に、その否定を受ける理由や根拠は何も書いてない。
一体何故批判するのか、一体何の批判なのか、さっぱりわかりません。

では、どうしてこのような事が起きるのか。
例えば知人であればその人がどのような背景の人間か分かります。
その人が書いてる文章のその背景を、正しく捉えやすいでしょう。
でも、現実はそういう人間ばかりではありません。

日本はハイコンテクストの文化と言われます。
日本語では、直接的な表現もありますが、直接的な表現を避け婉曲な表現をする事も多々あります。でもその言葉が使われた前提の文化や価値観、文脈などの背景から、その内容は基本的にわかります。

そういう背景という前提を持って言葉を受け取る感覚。
日本人であれば大体これが根底に根付いているのです。

もし、その前提の部分を共有できない相手であればどうでしょう。
当然、前提が理解できないのだから、書いている文章の意味も同じ意味では受け取る事ができません。
書いた本人はそんな事書いてないと思っても、受け取った人間はそこに何か別の背景を作り出してしまうのです。これはハイコンテクスト文化の弊害とも言えます。

読めない人はどうなるか。

書いてある文章がちゃんと読めないということは、そこに内容があろうと、要素に分解して自分が理解出来る形に再構築する能力がないという事です。
論理的な思考ができておらず、コミュニケーション能力にも問題が生じている状態です。

日常の情報の伝達手段である会話、ラインなど、その他のやりとりでも、相手が伝えたい事を、読めない人には理解できていません。
そういう時大抵の場合において、相手は面倒になって説明を放棄します。
余程理解して欲しい事でない限り、別に頑張って説明して伝達する必要はないんです。

つまり、読めない貴方は、気づかないうちに相手とすれ違っています。

文章が分からなければ分からない程、相手とすれ違っている回数が多いのは間違いありません。相手の書いてる事言ってる事を、本質的に理解できていないのですから当然です。

当然ですが、仕事でも悪影響が出ます。
上司の指示をよく理解しない、顧客の要望を捕らえられない。
問題点はいくらでも考えられるでしょう。

どうしたら読める人になるか。

これに関しては、言える事は1つです。
とにかく何でもいいから読む。
とにかく何でもいいから書く。
伝達する側、読む側、両者の視点に立って経験を深めて、そうして人は相手の伝えたい内容を理解出来るようになり、自分の伝えたい事に必要な要素を思い浮かべる事が出来るようになります。他の方法はないと思います。

何か読む?何を書く?

読むのは小説でも漫画でもSNSでもnoteでも、何でもいいです。
書くのも同様です。別に格好いい文章である必要すらないです。
とにかく、何を読むにしても書くにしても、しっかりその相手を意識して伝えたい事が何なのかをしっかり自分の中で紐解く事です。

そして、それを何かで発信することです。
自分の中でノートを書き溜める行為は、基本的には続きません。
どこかで発信して、誰かに見てもらうといいです。
そして、その反応を見てみましょう。

続けていれば、大体たまに何かの反応があります。
私みたいに適当な人間のXでさえ反応を貰えたりするのですから。

でも書くの難しい。

そんな言い訳してる間は人は成長しません。

まずは短い文章でいいです。
なんなら一文でいい。
とにかくやり始める事に意味があります。
簡単な事を始めず難しい事を出来るようになる事はありません。
どんなプロも簡単な基本を積み重ねた結果、その立ち位置に居る。
それを真似するのです。
そして、最終的に文章を纏めれる自分になるのです。

昔は確かに、文章を纏めるというのはいちいちペンで紙に書いて、その後その内容に筋の通ってない所がないか確認したり、表現方法を精査したり、何なら辞書を引いて調べたり、再度ほとんど変わらない文章を清書するみたいな事を何度も繰り返す必要があっただろうし、相当面倒だったのは想像できます。

でももう、パソコンやスマホは当たり前にあって、表現に悩めばググってもいいし、ChatGPTに投げてもいい。なんならAIに書かせた文章を自分が校正する側になってもいい。手段は問わず、文章が仕上がればいいんです。
おかしい文章が出来ても、おかしい部分だけ修正出来る。何度書き直しても、作業内容は手と指を少し動かすだけです。

それでも最初は変な文章が出来たりもするでしょう。
発信するのは恥ずかしいなどと考えるかもしれません。
でも別にそれでいいんです。気にせず発信しましょう。

そもそも他人は貴方に興味ありません。
そんな貴方が変な文章を書こうと、誰も見ないので恥ですらありません。

何も持たない貴方は、変な事を言って恥を書く事すら出来ないのです。

適当に作っては、気が向いたところで発信していってください。
どうせほとんどの人は有名になれやしません。
でも、自分が得た能力は、目には見えないかもしれないけど今後の人生で何かの役に立つんです。

文章を自然と書けるようになるということは、一瞬で浮かぶ言葉の幅も広がっているという事です。文章は実は会話力にもつながる能力なんです。
そして運が良ければ、発信を続けていく上で気が合う相手も見つかるかもしれません。そういうものも、得難い経験になると思います。

文章から逃げるな

人は、文章からは逃げられません。
どんなに嫌でも、私達が生きている間に文字によるコミュニケーションがなくなることはないでしょう。論理的思考は、どのような状況に置いても必要です。
文章を読み書き出来ないという事は、そういうことが出来ていないという事ではないのでしょうか。

人が生きる上で、意志の伝達手段である文章は非常に重要な能力です。
貴方はもう、文章から逃げている場合じゃないかもしれません。
今日から、始めませんか?
何かを読み、何かを書くという事を。

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