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人それぞれの正義

こんばんは、お久しぶりです。
朝と夜をなぞるだけの日常と言うものに触れて、はや36年。

先週のカウンセリングで、
「私は相手の問題までも自分の問題として扱ってきたことが、
人間関係リセット症候群的なことを起こしてしまったのだと思う」と言う話をした。

私は、事件後3か月で前ぶれもなく離婚届を置いて、娘を連れてマンションを借りた。もちろん、携帯番号も変えて。
その時の私は、「これをもって違う人生を歩むんだ」と決めていた。
しかし、どれだけ後遺症の腰痛が酷くても、フラッシュバックが酷くても
働かなくては食っていけないのだ。
ただ、当時の離婚時の取り決めで、娘が大学に行くならば22歳まで、行かないならば月々5万円の養育費と特別児童手当。貯金に手を付けないように、あるリサイクルショップで働くようになった。面接で「腰痛持ちなので、出社前に整形で注射を打ってから来たいのですが」とお願いをした。
社長は「そうなんだ、大変だ。ヘルニアか何か?」と聞かれても、性被害に遭ったことに起因する犯罪被害の結果とは口が裂けても言えなかった。
毎日、トリガーポイント注射や週に1回程度、ブロック注射を打って出勤していた。主に、私は昭和の骨董の選定が出来るのでその買い取りや事務作業をしていた。仕事をしながら、子どもを育てて、控訴され、控訴はすぐに棄却になったが、上告の結果までが狂うほど長かった。毎週当時は火曜日がカウンセリングと診察だったので、片道1時間半を掛けて休みなのだが休みでないような1日を過ごした。それでも稼いで生きていく、娘は小学校1年生だったので、残業が出来ず家に持って帰って毎晩、家で残業をしていた。
加害者はまだ未決囚なので、懲役がない。自由にごろごろして好きなものが食べられて、医療まで用意されている。そして、支払う税金が加害者の命の一部となる不条理を何度も感じた。
権利を主張するならば、義務を果たせというのが日本のセオリーである。光市母子殺害事件の本村さんが、新日鉄に勤めている時である。「退職したい」と言った時、「新日鉄であるからこそ、本村君を守るだけのことが出来る。やめて何をする。働かない人間の声を誰が聞く。社会人たれ。」

と言う言葉が私の中で大きな言葉だった。しかし、犯罪被害によって働けない人だってたくさんいる。だからこそ、必ずしも働かなければいけないとは思わない。そのために、社会財源として税金を納めているからである。
それが、被害者の方の明日の糧に困らないためにあるならば、私は支払うことに嫌悪感は抱かない。その逆として、加害者に対する税の支出があまりに多すぎる。加害者に対して年間2600億と被害者に対して年間10億では、あまりにも差がありすぎる。多くの犯罪には被害者が存在しているのに桁が違いすぎるだろうと。そして、訴訟などの費用て自腹を切らせることが果たして正しいのか。加害者はなければ国選弁護人が無料でついてくれる。
しかし中には「国選はやる気がない」と言う加害者もいる。なぜその言葉が出てくるのか。自身が決定して犯罪を犯したに他ならず、被害者は被害に遭う決意や未来の人生まで奪われているということを一切配慮していない。
日本が狂った国であると私が確信したのは、殺人などで無期懲役や死刑になった場合でも、民法上は受刑者、死刑囚を相手取って訴えるしかない。
しかし、何十年も前の様に無期懲役の受刑者が十何年経ったら、出てこれるということはなく、民意を反映した事実上の終身刑である。
その刑を与えているのは法治国家である日本であるわけだが、国が与えた刑事罰によって、回収が困難と言うか可能性はほぼ0と言う状態に陥る。
であれば、有期刑や執行猶予判決の加害者に損害賠償請求をしても、一部でも支払われる人は3割に過ぎない。事件直後が一番の金銭的な危機ともいえる中で、「裁判はやってあげるけど、回収は自分でやってね」はあまりではないだろうか。国税などは通帳の動きや購入しているもの(インスタなど)を逐一、見ているのである。そして、脱税分や追徴課税が支払えなかったら、差し押さえるなどをして家ならば競売に掛ける。
そのシステムが成り立っているのに、なぜ、犯罪被害者の権利を行使するのにここまでの苦労をしなければいけないのか。

被害に遭った時点で、様々な機関を回れるだけの余剰的心理など残されていないというところなのに、警察や検察だけでなく、様々な機関とのかかわりを持たなければいけない。しかし、加害者が関わるのは、警察、検察であり、刑が確定した場合に限り刑務官と関わる。そもそも、加害者が自身の自己決定の元で行われた犯罪に対し、被害者が何か覚悟をしているなどと言うことはありえない話で、そこだけにフォーカスをしたとしても、加害者にとって相当な優遇と言って相違ないと感じる。

そのような煩雑な作業を1つ1つ行っていくということに嫌気がさしたり、
1番最初に相談や報告をした機関から、二次加害的発言や行動をされた場合、本来行き着く先の相談機関に繋がることが出来ずに、ネット上でずっと名前を呼び続けたり、被害態様を掲示板等で発信する闇落ちとも呼べることになる可能性がある。そして、一番最悪な自体とすると自らの命を絶つといいうことで、この現実から逃げるという手段を択ばざるを得ないケース。
仮に、未来に対する不安であれば、その不安の9割は実際には起きず、仮に想像していた不安が実際に起きたとしても79%は自己解決が可能である。
しかし、犯罪被害などは過去に起きたものであって、それによって被ってしまった。精神疾患や身体の疾患などを「過去はもう存在しないのだから」と言えることは決してないと私は感じている。
例えばフラッシュバックと言うものは脳の危機管理能力が過剰に働いているという理屈では分かっていても、実際にその状態になれば10年前のことであっても簡単にあの日に引き戻されてしまう。
そして、その不安と言うのは加害者が如何こうではなく、またフラッシュバックが起きたらどうしようと、行動範囲が狭くなってゆく。
ますます、QOLは下がって悲しいほどに滅茶苦茶になって、気が付いたら年齢だけをとり。何一つその事件の日と変わっていない。
しかし、加害者はどんどんと変わっていく。
中には、同じような犯罪に手を染める人もいる、その逆に心から更生する人もいるだろう。7月になれば、加害者が不審死したことを知って、1年が経つ。もう1年、経ってしまうのだ。その間、私は何か怒りをアドバンテージにしていない努力が出来ただろうか。

どんどん、自分が齢を重ねていく毎に不安が込み上げてくる。
もう、急に死んだっておかしくないんじゃないかとか色々なことを考える。

Twitterのスペースで色々な人と話をする。多くの人はしっかりと人と対話するという姿勢が感じられるが、ごく一部の人は自身も同じマイノリティであるのに、責める様に発言を繰り返し、舌の根の乾かぬ内に自己矛盾を作り上げる人もいる。ネットと言う、匿名の世界の出来事は仮初であると思うようにしなければ、本当に悲しいことに多くの人が傷つく。
勝手にその場にいない人のパーソナルな部分のアウティングなど、文脈と一切関係ないことを発言する人と会話をしたとき、私はアウティングされた側の人を全力で守らなければいけないと思った、それが人の一分であると思う。スペースによって、沢山の人と出会い、寄り添う気持ちで関わることが出来たり、新発見をさせていただける機会を貰った。しかし、それと同じくらいに、嫌な気持ちや名誉棄損や侮辱、二次加害を受けることもあった。
精神的に堕ちていなければ、「実際の生活が面白くない不幸な暮らしをされているんだろうな、そうじゃなきゃここまで訳の分からないことを言って、時間の浪費はできないよな」と憐れむことが出来るが、精神的に堕ちている時は、「もう本当にやめてくれ」と思う。
人とのバウンダリーがうまく構築できない人と関わるということは、切り付けられるような痛みを感じる。
人それぞれに「正義」があると思っている、その言葉でなぜ落としどころとしてもらえないのか、人の尊厳や未来を奪う言葉を紡ぐことでやっと保てる精神状態の人は、自身の言っていることを顧みることはないのだと思った。
スペースは本当に有効的な場所であるが、しかし、それと同時に危険であると思った。

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