ものくろちゃん

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最近の記事

マインドコントロール

腰痛がひどい。痛くて、足がしびれる。 事件時に負った、第二腰椎圧迫骨折の後遺症で 骨折した部分が脊柱管に触ってしまっているからなのだが。 当時、年末で整形の専門医がおらず いたら、セメントなどの対応ができたかもしれない。 コルセット作成も時間が掛かり、かなり回復に時間が掛かった。 症状固定の診断書を見ても、 「完治の見通しなし」 と所見欄に記載があった。 会社員をしていた時は、時差出勤にしてもらい毎日2本注射を打ってから 出勤をしていた。今は、在宅だがよく会社員なんてや

    • ヒステリーによる虚言と作話

      カウンセリングと診察から帰って来た。 今日は、この部分に関してはあまりにも悲しい。 「悪貨は良貨を駆逐する」 という事なのだろうと思う。 私は、性善説を信じて生きてきているけれども 結局のところ、最終的には悪の方が蔓延るのではないかと憂いている。 自身の人生の自己決定権を人は誕生から憲法で保障されているが、 どれだけ盤石に人生の礎を築いたとしても、悪がその盤石を割っていく ということはいくらでも考えられてしまう。 モラル=法 ではないので人はその「モラル」を破るハード

      • 割符の如く

        私には、新年と言う概念がないので、あけましておめでとうございますなどと言う言葉は割愛させていただく。 ここの所、私があの日、電車に乗らなければ 迎えに来てもらえばと自身を責めることが多くなった。 私が犯罪被害者になった事になった事で、 家族を犯罪被害者家族にしてしまった。 その贖いと言うのはどのようにすればよいのかと、 私は主人を心の底から愛している。 出来れば、私は主人より先に死にたい。 もし、主人が私より先に亡くなったら、自刃すると言ってある。 それくらいに、主人が私に

        • 言葉の中にでも涙の中にでも

          「整合性」という言葉があるが、私は片一方の話だけを聞いてジャッジをできる立場にある人間ではない。 双方の意見を聞いて、捲っていく中で「ああ、そういうことか」と新発見をすることがある。悲しいが虚偽に虚偽のような言葉を連ねて、本人の世界ではそれが「真実」になっている場合、もう私には手の打ちようがない。 あくまで、私は善意の第三者であって、できることに限界もある。 自身の人生やその他もろもろを掛けてまで「賭す」と言うことが出来るわけもない。 対話の中で私は、相手を否定することは極力

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          非能動的なカウンセリング

          性被害者の被害後のカウンセリングによる改善率について、データを 探していたのだけれども、見つけることが出来なかった。 厚生労働省、警察庁のどちらかがでもが出していてもおかしくはないと思ったのだけれども。 カウンセリングなどの精神療法は被害者にとって辛い精神的苦痛を改善、軽減するといわれている。 しかしながら、そのカウンセリングによる効果は被害者によって大きく違い、カウンセリングが直接的に被害者にどれほどの効果を寄与するのかは、 本人のカウンセリング外での環境、持っているパーソ

          非能動的なカウンセリング

          私が死んだら、誰かの夢が朝になったそう思えばいい。

          もう、ずっと体調が悪い。 体調が悪い→精神的摩耗が激しい。 生理食塩水の点滴を受けたとて、何も変わらない。 今の私は、36歳(2月に37歳になるが)、幸福だった時間 というのは子どもが生まれて、たった6年だった。 酒井雄哉氏と言う、天台宗の僧侶がいた。 千日回峰行業を2度成し遂げた、父がその本を私に読んで見ろと 私て来た。 私は原始仏教の勉強をしていて、釈迦は「修業は意味がない」と 結論づけている。私は基本的に鎌倉仏教を信じていない、 地獄の沙汰も金次第と言うのを戒名やら法

          私が死んだら、誰かの夢が朝になったそう思えばいい。

          新規の被害者支援を一旦、停止します。

          twitterで被害者支援をしていました。 多くの方が、どうして行けばいいのかと暗中模索状態な方ばかりでした。 その方に必要なものが司法であれば、法テラスや犯罪の性質に合う事務所をさがす、ワンストップセンターの存在を知らない方にはそちらを紹介する、 司法以前に生活がままならない、心身の不調があるなどの場合は使える制度の紹介などをしてきました。 中には、実際に警察署に出向くことがあり被害届の不受理を防ぐ、委任していただいたうえで、警察との対応をするなどをしていました。 調書作成

          新規の被害者支援を一旦、停止します。

          解離性同一性障害

          解離性障害について、解離性障害には ●解離性健忘(あまりにも強いストレスで記憶がすっぽ抜ける) ●解離性遁走(東京にいたかと思ったら、沖縄で生活を始めているなど) ●離人症(現実感が無かったり、自分の体が違うように感じる) ●解離性同一性障害(以下、DID主人格が耐えきれないほどのストレスを感じると、 そのストレスが掛かっている主人格が「自分がされているんじゃない」 であるとかで、どんどんと人格が増えるケースがあり、その症状は多岐にわたって、脳内で会話を聞いているケースもあれ

          解離性同一性障害

          私の思想

          私は人の体などは、単なる糞袋でしかくて皮を一枚剥いたら 人は全て同じである。 ここ2か月くらい、色々なことがった。やり取りしていた人の死であるとか。今日のカウンセリングで「彼女、彼らが飛びついてしまうほどにきれいな世界だとしたら、私も一時の衝動でそちらに誘われる。 それは、不思議な事な事でもない」 この楽園の先に、私が安寧を手に入れるときは もう、誰も悲しまずに、安らかにと思う。 加害者が死亡したことを知って、1年が経つ。 私は加害者が生きてきたから生きてこれたと思って

          何もかもが憂鬱

          娘に「ママは全然私と関わってくれない」と言われた時、 犯罪被害者になった私が、娘や主人をとても傷つけるんじゃないかと思った。この地球上を探しても、どこにも私の生きる場所はないんだろうと ただただ、諦めとため息の今日までだった。 私は事件前前では家族と仲良く出かけたり、お菓子を作ったり、娘をいとおしく思った。しかし、犯罪被害者になると価値のあるものを手元に置いておくと、とても苦しい。 また、被害に遭った時に「全部召し上げられる」と言うような気がするから。だから、私は手元に価値

          何もかもが憂鬱

          生きるという痛み

          これ以上、私の人生の生き方や捉え方に対して、 言葉を連ねないでほしいと思う。 人それぞれである感覚と言うものの強要的アドバイスというのは、時として聞かなければいけないこともある。 しかし、「そうする」「そうしない」と言うこの二つの選択肢の中から人生を選んで生きている。自分でもおかしいと思いながらも。 私は、好きで犯罪被害者になったわけではない。 今後の人生を犯罪被害者として生きていくというのは本意ではない。 しかし、私の人生の履歴としては深く痛く残ってしまっている。 日々の

          生きるという痛み

          人それぞれの正義

          こんばんは、お久しぶりです。 朝と夜をなぞるだけの日常と言うものに触れて、はや36年。 先週のカウンセリングで、 「私は相手の問題までも自分の問題として扱ってきたことが、 人間関係リセット症候群的なことを起こしてしまったのだと思う」と言う話をした。 私は、事件後3か月で前ぶれもなく離婚届を置いて、娘を連れてマンションを借りた。もちろん、携帯番号も変えて。 その時の私は、「これをもって違う人生を歩むんだ」と決めていた。 しかし、どれだけ後遺症の腰痛が酷くても、フラッシュバッ

          人それぞれの正義

          生きるというのは緩やかな自殺と相違ない。

          私は、法的に知識がないことが時として精神、金銭共に掠め取られると思っている。 数年前、法学検定スタンダード(法学部3年程度)を受けた。 選択科目は、刑事訴訟法を選んだ。 人に対し、法はどうあるべきなのか、そしてどう活用されるべきなのかを考えていた時期である。まだ、民事訴訟の結審を迎えていなかった。 選択した刑事訴訟法のスコアはよくて、商法は以上に点数が低かった。 齢36歳になった今、今から文転して大学に行くなどは、現実的ではない。 よって、私は昨年から行政書士の取得を目指して

          生きるというのは緩やかな自殺と相違ない。

          臥薪嘗胆

          私は、今まで多くの犯罪被害者の人たちと関わり出来る限りの助言をしてきたつもりである。 その人に合うニーズの最適解を伝える様に心掛けてきた。 しかし、最終的にその助言を行動に移すか移さないかの裁量はご本人にあることであって、必ずその助言を実行するべきだとは全く思わない。 しかし、中にはその行動と真逆に行き、願ったような結果を得られていない被害者が存在している。 その人の加害された屈辱と言うものは、同じ被害者として理解できるからこそ、その人が望むように物事が運べばと思ってやまない

          不条理の中を泳ぐ

          ここの所、人生の中でかもしれない「もう、終わりにしたい」と思った。 精神的に吐き気が止まらない、吐くものなんてもうないのに吐き続ける。 自身の身に降りかかった出来事が、どれだけ不条理だったのだろうと俯瞰で考えるたびに、見つからない答えに狼狽える。 人生が1回だとしたら、と言うか1回しかない。 そのうちの人生を早い年齢で消化試合の様に生きていくということを選んでいる人も沢山いる。 私は、自他ともに認める負けず嫌いだった。 「負けるなんて、ありえないわ」と思って、何事にも向き合

          不条理の中を泳ぐ

          人生ってなんですか。

          この現状に叩きつけられたのは、「不運の積み重ね」だと思うようにしている。昨日のカウンセリングで、「今の私は、社会的に終わっていると思う。外に出て働くこと自体が不安で、自分の裁量で仕事をするかしないかをきめている。生産性がない人間であることが苦しい」と。 心理士は「今、〇〇さんは毎週、こうしてカウンセリングに来て立て直すことをしているのは、生産性のあることではないのでしょうか?」と問われた。「確かに、とても辛いことがたくさんあって傷つくということ前提に来ています。切り付けてて切

          人生ってなんですか。