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何もかもが憂鬱

娘に「ママは全然私と関わってくれない」と言われた時、
犯罪被害者になった私が、娘や主人をとても傷つけるんじゃないかと思った。この地球上を探しても、どこにも私の生きる場所はないんだろうと
ただただ、諦めとため息の今日までだった。

私は事件前前では家族と仲良く出かけたり、お菓子を作ったり、娘をいとおしく思った。しかし、犯罪被害者になると価値のあるものを手元に置いておくと、とても苦しい。
また、被害に遭った時に「全部召し上げられる」と言うような気がするから。だから、私は手元に価値があるものや責任を置かないようにしている。

泣く娘にLINEで本心を書いた。
「〇〇ちゃんが、関わってほしくないと思うならママは〇〇ちゃんが家を出るまで関わらないから。本当の気持ちを言ってほしい」と。

母親失格だとおもった。
心では大事で大事で仕方がないことを、私は上手に表現が出来ない。
仮初でまやかしを言っているような、罪深い自分と言うものを感じてしまう。だったら、もう表現なんてしない。何も求めない。

時々、「早く死にたい」と思う時がある。自殺ではなくて、眠っていたら死んでましたというような。

私はこれ以上苦しみたくないし、私の苦しみを伝播させたくない。
私の命なんて、だれも望んですらいない軽いものだと思う。
私が私だからと言うような理由で親に愛されたこともない。
勉強が出来る私、表彰される私。そういった、付加価値があって
初めて少しだけ認めてもらえる人生だった。

もう正直どうでもいいと思っている。
良くなるようにカウンセリングに週1回、8近く通っている。
ただ、その面接は私の傷を大きく抉るだけで、誰も心理的縫合をしてくれない。傷は膿み、どんどんと腐っていく。
心も膿んで腐るんだなと私は、淡々と驚いている。

今まで死なないで生きていた理由は、約束なんかしていないが
加害者が生きるなら、私も生きて追い掛け回してやると言う所だ。
だけれど、加害者がこの世にいない。

人は「子どもがいるんだから、家族がいるんだから死んだらいけない」
と安全な場所から石を投げる。

私だって、初めは家族がいるから死ねないと思った。
しかし、その閾値はとうに超えてしまった。
死んだ後の心配なんてどこにあるんだと。

娘からの一言は私の心にアッパーを食らわせるくらいに痛かった。
でも、娘の思いだって私は汲みたい。
しかし、汲むに汲めない。
彼女が乞うことを私はなんだってしてあげたい。
だけれど、そんな彼女を惜しむことももたれ合うことも許されない。

あの日の寒空の下で私は死んでいた方が遥かによかったのかもしれない。
あれから10年、ただただ犯罪被害者であるということをひた隠しにして
強制わいせつ致傷の被害者じゃないんだ、と思い込むことで何とか生きてきた。それがどれだけ、無意味で屈辱的な事か。
加害者にとっては一時の性欲の高まりで、私の性と命を奪いかねない行為をした。しかし、被害者の苦悩と言うのは一時の話ではない。
ずっと、ずっと苦しむのだ。
PTSDや解離が治ったと言う人もいるが、そのロジックを聞きたいけれど誰一人として堪えられる人は居ない。
毎日が大げさじゃなく、無意味な日々の中で「生きろ、生きろ」と言われると私はどんどんと醜い気持ちになっていく。
形として生きていることに何の価値があるんだと。
自分たちが悲しみたくないからそういっているんでしょ?と思う。
だから、私は自殺の決定権は個人の域から出ないと常々言っている。

すくなくとも、私の中で「結果」は救ってくれるものではなかった、
思った結果を得てきたけれど、それが被害を打ち消してくれるなんていうことはない。常に努力をし続けなければ、被害から救われることなんてない。
しかし、私は私なりに10年努力をしてきた。
その結果の答えはと言うと、単なる徒労でしかなかった。
その徒労を私は、きっと叶う、叶うんだと大事にしてきた。
薄々、これは叶わないと思いながら。
10年もここに費やしてきてしまったからこそ、簡単に「徒労」
と思いたくなかった。
醜い私と五月雨が降りしきる中で、優しさなんてとうに失ったんだ。
加害者も失ったんだ、と虚無に似た悲しさに駆られる。
当たり前に安心できる明日が事件後、巡ってきたことはない。

「何もかもが泡沫になって、消えていく」

そんな風な人生だったなと、今日までの人生を振り返るとそう思えてならない。

ないものねだりなのかもしれない、でも私はそんなに多くは望んでいない。
ごく普通の生活、いや、事件前の生活を望んでいるだけの人間だ。
季節は巡って春は来る。しかし、あれからと言う日々に春は来ない。
もう待ち続けた。開放的に人生を終わらせるということをふとした瞬間に考えるから、私は生きていけるんだと思った。


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