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命の所在

起きた時「もう、疲れた」と独り言でぼそっと言った。
これは紛れもない事実で、何に疲れているのかと言うと、この人生そのもので、自分の人生に憎悪を持つほどである。

人の中には、人を欺いて自身の欲望を得ることに罪悪と言うものが存在していない人がいる。それは先天性なのか後天的なのかば別として、法律に触れることすらもを何も考えない人。

ベランダに座っていて、「なんで周りの人が悲しみたくないということのために、生きることを与えるのか眠りをゆるさないのか」と考えた時、恐ろしさを感じた。

仮に私が、友人に「自殺したい」と言われたら「それはこの環境では生きていないということ?それとも環境を変えても、生きていくことが難しいの?」と聞く。本人は「環境がとかじゃなく、この苦しみがずっと続くなら死によって救われたい」と言われると、「絶対にいいから生きてとは思えない」、本人が自殺を選んだのであれば本人の権利であるから、それは当然自己責任であるけれども。ただの感情論で「生きるべきでしょ」とその人に何の担保もないのに言葉を紡ぐことは、エゴでしかないと思っている。

私の希死念慮の理由は疼痛がトリガーでフラッシュバックを数え切れないほどに感じる苦痛、そして、全く未来に耀い展望を持てないということ。

35年生きてきて、幸せな期間は6年。29年は相当に不幸だった

今日、車を運転しているとき「死ぬということは目の前の全てが崩れ落ちる様を見て、二度と見えない光景なのだ」と思った。

全くまともに眠れない生活を10年生きていると、どこかで限界が来てしまう。私の子どもは5歳まで夜泣きを2時間おきに繰り返した。だけれど、その場合の「まとまって眠れない」と言う上記と同じ状況であったとしても、まず一生、子どもの夜泣きが続かないからこそストレスが全くなかった。
しかし、いつ終わるかも分からないこの現実に対して
自身の死生観を持ち出されても私は1㎜たりとも理解できない。

無様な形で命を長らえさせることが本当に正しいのか。
自身の奪われ切った尊厳の回復など、精神的な域を出ない。
そこの回復に縋って生きることをするだけの力が全くない。

よく「死ぬ気になれば何でもできるでしょ」と言われるが、本当に心の底から努力していたら、その言葉は出てこないのだ。死ぬ気になってやるほどのことって存在していないだろうと。そう思う人は、「死ぬ気になって勝手に生きて行けよ」としか思えない。

私自身の希死念慮は全てが犯罪被害に起因している、人に蔑まれ貶める、
好奇の目で見て、エンタメの様に消費される。
その体験をするたびに、自分の価値を根こそぎ奪ってしまいたいという気持ちになる。ひょっとすると深層心理では「私には価値があるんだ」と思っている可能性がある。その僅かで不確かなものに無意識の内にすがっているのだろうと。
車を運転しながら「どうやって死のうか」と考えた時、身分証やスマホを持たずに特急電車に飛び込む。首の頸動脈を刃物で思い切り切る。
具体的な自殺プランを考えていると医師に伝えると「入院したほうがいいんだけど、それって何の解決にもならないよね」と。例えば家族とのトラブル、うつ病の急性期、ストレスケアのためだとしても、私は入院した先でも疼痛に耐え、犯罪被害者であるという現実は全くない。
毎月数十万払ってまで、どうこうしたいとおも思わない。
前のカウンセラーから「死んだら、終わりなんですよ」と言われたことがあるが、そもそも、私は終わりを望んでいる。
今までの35年間で体験したことを紙に書きだすと、確率論的にこれから不幸なことが起こると考えた方が説明がつく。

中には事件内容、PTSDからくるうつ病であると知っていて
「コロナ前から、在宅勤務してるじゃん?外でないじゃん、それだとPTSDもうつも治らないから、遊びにいこう。」と言われると、「無理なんだよ」としか言いようがない、そもそもPTSDとうつ病、犯罪被害者になる前の私は、比較的、明るかったし昔の布や昭和レトロなものが好きだった。今はまず外にでない。

犯罪と言う行為はその被害者のアイデンティティを根底から壊す、一種の殺人行為と相違なくて、傷害や暴行は身体に傷が残っているから被害届が受理される。しかし、精神的な傷や内部障害になってしまった人は「当たり前に健常者」と見る、それが耐えられないから道化を演じてしまう。
私には人間関係リセット症候群があるため、出来ればしない方がいいけれども、特に人脈(社会や友人(ネット含め)」利害関係がないと思ったら、私はその関係してきた人たちには申し訳ないけれど、仕事をやり終えて迷惑ではないと判断したら、電話番号、メアド、SNSの削除をしてしまう。
まだ、「2週間後に退職させていただきます」と上司に言っても「今人いないからあ」と。まず、1人辞めた程度で回せない企業は終わっていると私は思っている。セクハラの次にきつかったのは双極性障害+ADHDの人と、二人で仕事をする中で独り言で「ふっざけんなや、殺すぞ」と不備があったであろう用紙に暴言を吐く、定時近くになって「これは明日、私がやれば十分に間に合うから手を付けなくていいですよ」と言っても、私は事務方だったので「今日は22時には帰れないな」と思いつつやっていたけれど、セクションの長が「うちの会社は月30分しか残業できないって知っているよね」と総務の人に言われ、その方と一緒に「まあ、こういうこともありますよ」と言ったら、「こんな薄給のバカみたいな職場に何求めてるんだ死ねや」と
躁転してしまうと、彼曰く「何でもできる」かのように感じてしまうらしく、PCの自己作成に値段も見ずに買ったなど。
私自身がその人のことをしっかり受けられないし、セクハラ被害に遭ってい

正直に言えば、そういったメンタルの人と関わること自体が苦手で、自身の興味関心があることはすごく記憶しているけども、対話と言う場面では、コミュニケーションが低いことによって、セクションの周りに人は「印刷してくれたんだね、ありがとう。。。あ、ごめん、滅茶苦茶歪んでる。」
などの問題でカサンドラ症候群になってしまう。

こういった経験から、「人間関係をリセットすればいい」と言う考えに陥ってしまう。
スマホの普及のより、パブリックな場面なのかプライベートなのかの位置づけも難しくなっていると思うと今の私に本当に恐ろしツールである。
人を助けることも出来るが、生命を奪うことが出来てしまう
包丁と同じで、使い方を間違えたらとんでもなく危険な道具だけれど、ちゃんと料理をするという方法であれば誰も傷つかない、しかし適正利用がされないケースがある。

私の事件概要も知らない、PTSDの事も知らない人が私に関わること自体が相当に迷惑で(支援の為に被害者の心情をしりたい人は別として)
いくら、被害者同士が語り合っても法は変わることはない。
そこには感情論がどうしても発生してしまう。
酷ければ被害者が被害者を貶める言葉をかけるという、残酷なことが起きてしまっている、それ自体が二次被害であって被害者なら被害者の気持ちを分かってくれるだろうという願望が打ち壊されて、本当にやるせないという気持ちであった。

ここ1週間で、まったく論理が通じない上に良いように解釈する
自身の心理的充足の為に被害者を利用する反社会性パーソナリティであろう人と関わるなかで、

「人が自身の承認欲求を満たすために今まで散々りようされてきたことを鑑みると、これからも起こると考えることが普通である、だから人は怖い」と言う結論に至った。


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