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犯罪被害を申告できなかった人。

水井真希さんの映画「ら」という作品がある。

https://eiga.com/movie/81470/

水井さんが性犯罪の1番目の被害者になり、そのあと加害者が連続拉致の性犯罪事件に手を染めるという事件を元にされたもので、
水井さんは「あの時自分が警察に被害届を出していたら防げたかもしれない」と仰っている言葉がとても印象に残っている。

私自身、今まで考えたことはなかったのか考えないようにしていたのかは分からないけれども、加害者は私以前に被害届が出されていない強姦、強制わいせつの被害者を7人出している。そのもっと前には実際に、強制わいせつ罪で検挙され執行猶予付きの判決を受けている。
もしも、私の前の7人の誰かが被害届を出してくれていたら
「私は被害に遭わなかったのに」と思うかと言うと、思わない。
なぜならば、私自身は強制わいせつ致傷と言う、第二腰椎圧迫骨折と頸部捻挫、頭部打撲の重傷を負っていたので「被害届を出さない」と言う以前に親告罪でもないので当たり前のように捜査は迅速に行われた。
仮に、性被害のみだったとしたら私は被害届を出せただろうかと考えると、
出すことはすると思うが、警察にそこまでの捜査のリソースをさくだけの機能があるとは思っていないので半分諦めているだろうし、被害状況を何度も思い出し供述するくらいならば、防衛機制が働いてなかったものにしようとするかもしれない。

だから、もしも性被害を申告できなかったということでご自身を責めてしまっている被害者の方がいたら「あなたは悪くはない」と私は伝えたい。
天網恢恢疎にして漏らさずという言葉の通り、確実にその悪行から逃れきることなどできないと私は心から思っている。
犯罪被害に遭ってしまったからと言って、生きていく世界が100%犯罪被害の回復の時間として使えるわけでは決してない、日常を生きるために働く必要や家事をしたり、育児をしたり、学業と当たり前の朝と夜をなぞる日々と言うものは、犯罪被害と並行して行わなければいけない。
人がファクターを置ける部分の大きさにも人それぞれの部分がある。
精神的なタフさと言うと語弊はあるけれども、負のエナジーを抱え続けて生きていくことすらもが生となるひとと、そうでない人もいる。
幸せになるという選択肢のために日常や様々なハードルがあるから、被害申告ができないということだって、当然にしてあると思う。
被害に遭ってしまった時点で毎日が辛い日々が続くでしょう、決して消え去ることのない、精神の殺人的行為だと考えるので「辛い」ことを隠しながら生きている人の気持ちを考えると筆舌に尽くしがたいものがある。

私の加害者の場合は、1回目の強制わいせつの検挙で執行猶予判決ののち、7人の被害者が私と近い時期で被害に遭っていて、私で検挙され出所して自殺したことによって「再犯」と言うことが物理的に不可能になっただけなのだ。いくら、法律を持って刑罰を与えたとしてもその人間はよほどの罪でない限り確実にこの社会に戻ってきてしまう、その時に「再犯」をするかどうかは、加害者自身の社会規範や道徳規範に留まる問題でしかなく、被害者が申告をした、しなかったに左右されるものではない。

水井さんが、今でもご自身をもしも「あの時」と思うことがあったらならば、それはとても残酷なほどに辛い思いをされている。
この世が天変地異をしたとしても、自分よりも力の弱い人間を無作為に選び出し、自己の欲求実現のために犯罪という行為に手を染めている時点で、被害者に落ち度と言うものは一切の存在はしないと断言できる。

性犯罪者の再犯率が高いという点からしても「逮捕され、起訴され、実刑」になったとしても、また罪を犯すほどに自己の制御に問題のある脳構造、衝動性があると考えるのが相当であり、1人目の被害者で実刑になった場合であっても再犯を繰り返すという時点で、この日本の与えている刑罰と言う形そのものに根本的な「欠損」が存在していると感じる。
判決文の文末に「相当期間、刑務所で罪に向き合うべきと裁判官と裁判員で評議した結果、懲役を超える判決をやむを得ないとした」とあるが、単純に矯正施設に収容することで「その期間の再犯がない」と言う確約でしかないのだ。薬物犯罪にしろ刑務所に収監されていたら、どうひっくりかえっても薬物を手に出すことができない物理的な状況でしかないから、再犯が起きていないだけの話である。薬物は、ダルクであるとか精神科で治療なりを受けることができ、比較的、義務教育の中でも「薬物の危険性」については教育されている。薬物の使用年齢も40歳台からが多く、若年層は年々の低下と言う部分からしても国民に「使ってはいけない犯罪である」と浸透していると考えられる。出所した後は、被害者以上に「人権」は守られ、挙句の果てに忘れられる権利などと言い出す。憲法にプライバシー権と言うものは存在するだろうが、人の人権を自分の決意のもとで奪ったのであれば「被害者からその被害を回復する」と言う行動をしたうえで、権利を主張することが最低限するべきことであろうと思う。
私は、犯罪加害者特に殺人、傷害、暴行、性犯罪などの身体に与える原状回復の不可能な犯罪を犯した者に対しての人権と言うものは、被害者の人権と平等であるということは憲法と言う概念を私の中から排除して考えた場合は、確実に同等かそれ以上と扱うこと自体が平等でないと考えている。
この記事を読む人によっては「過激な思想」と思う人もいるかもしれないけれども、「犯罪者の人権だってあるでしょ」と思うならば、犯罪者にならなければいいだけの話で、犯罪をするかしないかは本人が決意した結果で被害者は決意して被害者になっていない時点で同列の軸では議論することすらが不可能に近いと思っている。

日本政府が性犯罪者にGPSを装着する云々の議論をしているが、仮釈放中に限るということ自体がまず骨子の一部なのかと考えると、仮釈放の期間などたかが知れているのである。一生涯つけるべきであると考える。

「人の人権を奪う人間は、奪われる覚悟があるやつだけだ」

と私は思っている。

今回の加害者の死を考えれば、「死亡」と言う究極に不可逆的な方法で再犯が亡くなったと考えれば、もろ手を上げて喜ぶことは全くないけれども、その点においては、この加害者が新たな被害者を生む可能性は確実に排除されたということだ。誤解のないように記載するが、「加害者の死」と言うものに対して歓喜や安堵と言う気持ちは抱いてない、単純に司法の与えた刑罰を終えただけで慰謝の部分は一切されていない上に、生きて苦しむことがあっても二度と罪を犯さずに慰謝し続け、寿命まで生きるべきと思うところから、究極的に突き詰めたら「死んだから再犯がない」に留まる。

前回の記事に「成育歴や病歴を公判に持ち込んで量刑に関係するのはおかしい」と書いたけれども、もしも1回目の公判で「あなたは一生、GPSを装着しても構いませんか」と言うことが減刑の条件となるのであれば、私は執行猶予中とか仮釈放中に限らず、一生涯つけるということで初めて「減刑」の要因の1つとして組み込んでもよいかもしれない。
私の公判の時にも「治療をする」と言うことを情状のひとつとして挙げていたが、性犯罪加害者が自費を使って多くは平日の自助会やカウンセリングなどに一生涯通い続けることができるのかということを考えたときに、
「それは、私には確認のしようもないことであって、そういった犯罪で執行猶予になった時から行くべきでしょ。なんなら、そういった性癖を感じた時点で。」と思ったので、GPSをつけられたから人権がプライバシーがというのであれば、原点回帰になるけれども
「はじめから、やらなければいいじゃない」と言うところになる。

正直に言えば、犯罪者や前科がある人にとっては、
「人権やプライバシーは守られるべきだし、忘れられる権利だって」と思うのはその立場と言う視点になれば、当然であるし、日本政府の政治家であっても加害者の人権と被害者の人権も憲法の定めるところで「平等」と考える必要があるし、一個人の意見を言っていい立場ではないところから仕方がないとは思う。

日本と言う国自体がこの100年と言う単位でみても、軍国主義から移ろい現代のような国家体制が存在している。そこに則した、社会に則した様に柔軟に法律と言うものやそこに付随するものも変わっていくべきで、いつまで戦後の法律を引きずっているんだという部分だってある。
そこを変えないとしても、柔軟性があったとしてもいい。

「被害者と言う複数単位で論じるべきではない」と言う考えがあり、
誰しもが、1人1人ずつの心情や環境というものがある。
「被害者」と言う一括りで考えていい問題でもないので、私と逆の思想の被害者の方がいても「そういう考えがあるのも当然だ」と思う。
否定的な意見を言われることも実際にあるけれども、人が2人以上になった時点で意見と言うものは分かれるし、属性が違えば確実に分かれる。

しかし、常に心に持つ思いと言うものとしては
「今、安全だと生きている人の明日が誰かの手に壊され、安全でないと感じる人が明日生まれる」と言うことは間違いなく、その人たちが今の時点で
「犯罪被害者の権利拡充等」に関心がなかったとしても、当事者となったときに必ず「こんなに世の中は、犯罪被害者にとって生きづらいのか」と思うことになる。
私が犯罪被害に遭った時は、被害者参加制度と言うものができていたが
その数年前には遺影すら持ち込めないと「刑事裁判に被害者は関係ない」と言われるような時代であった。
歴史の中でのリレーションシップによって、その方たちの血のにじむ尽力のもとで私は様々な制度の恩恵にあずかることが出来たのだ。
しかし、その被害者支援の部分においては不十分と感じられる部分は多くある。その部分を今の被害者が変えていくことで、次世代の10年後、20年後の被害者が、私が被害に遭った時よりも早期に被害回復ができて、再度人生を構築することが恐ろしくない時代になっていることが必要だと思う。
2000年ごろからのネットの発達で諸外国の状況であるとか、個人の意見もが世の中に発信できるようになった。それに従って、犯罪被害の告白を辛い中でしてくださったり、その支援をしてくださる方が世の中に浮かぶ機会が増えた。インターネットと言う使い方を間違えてしまえば、人の命をも奪ってしまうこともあるものだけれど、点が線になり、「誰が行動したかは分からないけれど、この世の中で犯罪被害者が生きやすくなった」と遠い未来であっても変わることが出来るのであれば、私はこうやって少ない人であっても記事を読んでくださっていることに感謝の念はあふれるばかりだ。

「法律を変えるのは、よくも悪くも民意である」

そうやって考えれば、この私の小さな声もあげているだけでも意味はあるのかなと思った次第である。


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