ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(1)

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のことは書きたくない。ラース・フォン・トリアーという精神病持ちらしい映画監督作品は「ニンフォマニアックvol.1」と最新作の「ハウス・ジャック・ビルド」は観たことがある。しばしば鬱映画に定評のある監督であるが、過激さからはテレビで放映されることはないし映画通のブログなどで取り沙汰されている程度で普通に生活していたらおそらく辿り着くことはないのではないかと思う映画監督だ。少なくとも私見ではそう感じている。現に私が実生活でラース・フォン・トリアーという奇異な名前を耳にしたことは、今からあげる紹介者までなかった。
 猫の額のように狭い私の交流関係のうち、シネフィルほどではないが映画好きの子持ちの婦人がいて、アルバイト時代に知り合ったのだが、その人からラース・フォン・トリアーという監督を教えてもらった。こうした人間がひとりでも知り合いにいると、生活が豊かになる。
 そもそも私の偏食ぶりからして、この人から飛び出す映画の著名人はだいたい「知ってるけど見たことない」どころか、「名前は聞いたことがある」程度ばかりで話に載ることができているのか甚だ怪しい。私にとってはエイリアン撮ってあとは社会派とかなのかなという印象のリドリースコット監督作品もみればさいきんだと「フレンチ・ディスパッチ」で話題のウェス・アンダーソン、マーベルのスパイダーマンまで見ている。大方私のような大衆映画から逃亡し、ゴダールやらデヴィッド・リンチやらなんだかわかった気になっている連中が見るような映画に固執しつつ、しかしナカナカ配信やレンタルビデオ店に並んでいないことから無限に商業主義に呪詛を吐いているだけの人間からすれば、映画を楽しんでいるような人間がかえって羨ましく感じる。「フレンチディスパッチ」だって作り込みは面白かったが、展開は凡庸というか、オムニバス形式というのか、長編にできないエピソードを雑誌という体裁でなんとかまとめましたという思惑に見えてきてしまい、おまけに前のエピソードと似た要素を掴んでしまい、どこかワンパターンなものを見せられているきらいがあった。
 そんなこと言い始めたらどの映画を見ていたってうんざりするのは目に見えている。最近見た映画ばかりで話を取り繕うのは甚だ恥ずかしいが、ジム・ジャームッシュ「コーヒー・シガレッツ」だってカフェとコーヒーとタバコという要素の他は実に内容のない話が延々と繰り返されるだけで、一体何を見にきたのだろうかと思わせる。ヌーヴェルヴァーグに釣られてエリック・ロメール作品がいくつかアマゾンプライムビデオに限定で入った時、よし見てやろうと意気込んだがいいが、道徳的な議論ややたら愛を語る連中が跋扈する展開に嫌気がさして、「飛行士の妻」「美しい結婚」「海辺のポリーヌ」だけしか観れなかった。「飛行士の妻」はまだプロット自体が魅力的だったことに対して、「美しい結婚」もっといえば「海辺のポリーヌ」はあまりにも恋だの愛だのの押し付けがましさが腹にくる。「飛行士の妻」はまだアンニュイな青年が主人公で感情移入が容易だったからかもしれない。
 これは映画から物語の構造だけを抜き取っているだけで何も楽しくないだろうし、今あげたようなジム・ジャームッシュやウェス・アンダーソン、エリック・ロメールの他の作品を見てみて傾向を掴んでいくとどこかで持ち味が掴めて面白さを見つけられるのだろうが、私の映画の見方があまりにも何かに固執する視点をとりがちなことから、純粋に映画を楽しめないでいることは明白である。
 映画を見る目として、物語構造の他に映画の特有な映像表現に気を配る場合がある。カメラワーク、人物配置、シーンの繋げ方、そのひとつひとつに意味を持たせて、あるいは意味があるのだと咀嚼していく。絵画から物語を拾い出していくというより、妄想の産物に近づかないかと時々おもうこの分析まがいの行為に合理性があるとは思えないが、たとえば異国言語で書かれたテクストを翻訳するように、そうした表現記号を解読する文法のようなものを知っている必要がある。そうした技術的な面においておこなっていても、表現記号として正しく作用しているのかという点に関して、うまく噛み合わないと何やらオシャレのために行なっているだけなのでは?と感じる。
 先に挙げたウェス・アンダーソン「フレンチディスパッチ」の三本目のエピソードでアニメーションパートがある。(映画を観た後でネットの感想に「これを全て実写でやっているのはすごい」という意見をみたがこの人は二本目で退席したのだろうかと、トイレに行きたくなって警察署長の息子が気球で攫われたあたりで退室した私がいうのもなんだが)が、コミカルさを演出すると同時にコミック記事の動画化という意図はあるにせよ、語り手である黒人の記者がどこかルポライターというよりかはストーリーテラーを醸し出しているのにどこかよそ行きさを覚えたし、そもそも雑誌をめぐる体裁をしていながら、一本目は講演会を模した語り、三本目のテレビショーのゲストを招いたインタビューといった枠をこしらえているのはどこか首を傾げてしまう。
 今回の場合、あまりにも一貫性を感じない演出さに、雑誌ってまあこういうものだしなと自分の中で咀嚼したが、この噛み合わなさをいつまでも引っかかったまま残るのも悪くはない。いつまで経っても「あれなんだったんだろう?」となるものがあってこそ面白い。予定調和で物語が設計され、画もきっちり必要な情報が記されていった映画を私はすっかり楽しめるのだろうか。私は新海誠の「天気の子」を見た時、あまりに画がうるさくてきもちわるくなった。
 ラース・フォン・トリアー監督作品は、というふうに一括りにしてしまい、知った口を聞くのはあまりにも恥ずかしいのだが、少なくとも先にあげた三本を見れば、物語が念蜜に設計され、画にきっちり必要な情報を記しながらも、ちゃんと余白を観客に用意している撮り方をする、と私は考える。

(ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(2)につづく)

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