團歿日乗 2023年9月30日

本当は仕事の週なのだがズル休み…

嘘。有給休暇の消化。

午前中にこの土日にキャンプへ行く親が
ぼくの名古屋の自宅に寄って
車検に出していた私の車を届けにきてくれる
そんな話だったんだけど
持ち主によく似た気まぐれなぼくのミニは
ぐっすり拗ねてしまったらしい。
一向にエンジンがかからないので中止。

ぼくは昼から映画を見に行こうとしてたので
ちょっと予定より早く出かけた。

名駅の東側に魚市場があって、
マグロ丼が食べたくって入った。
磯臭さがかげるから少し好き。
もっと朝早くに行ったら賑わってるんだろうなと祭りの後のような市場をぐるぐる回って(そんなに大きくはないんだけど)奥まったところにある食堂に決めた。老人の向かいに相席でと細長い会議テーブルへキャバ嬢みたいな店員に通された。しかも店の外。相席…と苦笑いすると30代ぐらいのおじさんに挟まれた狭い席を通された。どっちもどっちと諦めたが老人の方にすぐに盆が通され、そそくさと帰っていった。老人の隣にはTRICKのときの阿部寛によく似たおじさんがいて丼が届いたときやけに驚いていた。中年の男に囲まれながら、蕎麦のつゆみたいなお吸い物と丼を食べた。マグロ丼は品切れで、ひとまわり値が上がる中トロ丼ならあると言われた。まだ12時になる少し前なのに。酢飯でもない熱々の米の上で脂身がヌメヌメしている、わさびが親指くらいのってる丼の半分くらいの嵩しかないうんざりする中トロ丼を食べた。貧しさを至極感じる。これで900円も取られた。貧しさを至極感じる。

とはいえ給料も入ったし好きな作家の新刊とかを
本屋で買う。古川日出男「の、すべて」
あとハントケっていうオーストリアの作家の作品集。どうせ外すしカバーを巻いてもらうのもなんか嫌になってきてたのでそのままでもらって風呂敷に包んだ。風呂敷を使うとどの店も興味深そうにその姿を見てくる。

そこから歩いて一駅分歩いて映画館に向かう。都市部の文化的な映画を上映するようなタイプの劇場で僕はあんまり好きじゃない。客層がシネフィルみたいな人ばかりだからだ。かと言って名駅のすぐそばの某映画館やショッピングモールに併設されてるなんちゃらシネマとかは商業的でこれも好きじゃない。詰まるところ自分は映画館がたまらなく嫌いなのだ。
時間感覚がバカなのだがまた1時間早く着く。
売店でレモネードを頼んで家から持ち出してた新書サイズの本を読み終えてしまう。吉本隆明について書かれた本なのだが吉本隆明が論じた高村光太郎という詩人の話ばかりになってきてあんまり楽しめなかった本だった。イベントがあったのか映画関係者らしい人たちが入り口で何やら映画館のオーナーらしい人と立ち話をしていた。花束を持ってきた婦人もいる。土曜の昼間だと言うのに年配の客しかいない。なんだか自分の趣味がふけきっている気がして嫌になった。

映画はゴダールのドキュメンタリーを見たけど、ほとんど四方田犬彦の本で読んだ内容で新鮮味はなかった。手っ取り早くゴダール を知りたいなら見れば良いけど演出の幾つかがあまり好きじゃなかった。当時のスタッフとかもっとたくさんの人にインタビューをしてるのかと思ったけど、そんなにと言った感じだった。映画史以降のキャリアがほとんど語られないまま終わったのが不満だった。というかほとんどすべてが中途半端な映画だった。見に行かなきゃ良かったとさえ思う。何も心が踊らなかった。そもそもゴダールなんかでそんなことが起こるものではない。ただただゴダール礼賛といったきらいがあり、大変鼻についた。ゴダールは芸術家であって誰とも分かり合えない人でしたちゃんちゃんでも撮ってきますというようなところは、正直言ってタマタマ運よくそういうたくさん映画が撮れた映画作家になれたんだろうけど著名な映画作家というレッテルを外したら異常男性で社会不適合者じゃん。と嫌な感想ばかりが並ぶ。社会の荒波に揉まれてみるとそうした腐ったことしか言えないのかともっと嫌になった。

中途半端な映画だった上に終わる時間も中途半端で家に帰るには微妙だし、夕飯を取るのにも微妙なじかんだったから一駅歩いて名駅まで戻った。曇天になっていて洗濯物を心配した。百貨店でコーヒーミルと豆を買った。上の階でグルメ市があったのでラーメン目的で行った。ついでに何か粒物を買って帰ってお夜食にしようかと思ったけど高くて辞めた。大阪の551が下の下の階の方まで並んでいて馬鹿じゃないのと思った。前会社の課まるまるで兵庫に行った帰りにどこかのサービスエリアで帰りの時間なんて忘れて551に並んで自分たちの分だけ買ってきた先輩二名のことを思い出して嫌になった。

帰りの電車で雨が窓に張りついて心配は的中した。嫌になった。駅を出ると一目散に駆けて行ってもう台無しになった洗濯物を取り込んだ。

19時ごろ無印で買ったカフェインレスのコーヒー豆をミルにかけて試してみた。確かにコーヒーだったけどちゃんと眠たくなった。

積読本を減らしたくて読みたい本を山から集めて取り出してきた。平山夢明のダイナーと坂本龍一の自伝を読み始めた。ダイナーは映画まだ見てないけど、平山夢明のグロさと陰険さが今の気分にあっていた。タメ口の語り手であるオオバカナコが酷い目に遭うんだけどひどい目に遭う女を見ると少し気が紛れた。昼間に見たゴダールのドキュメンタリーでゴダールは女が嫌い、ミソジニーなのよとかつて撮った映画の主演女優に言われてて、なんだか自分もミソジニーなんじゃないかなって思えてきた。坂本龍一の自伝でまだ出だしのところで当たり前のことを書いているけどすごい大事だなと思った箇所があったから丸ごと引用してこの日の分の日記を終えたいと思う。ぼくはこの引用からいくつか反省しないといけないことがある。

表現というのは結局、他者が理解できる形、他者と共有できるような形では成立しないものです。だからどうしても、抽象化というか、共同化というか、そういう過程が必要になる。すると、個的な体験、痛みや喜びは抜け落ちていかざるを得ない。そこには絶対的な限界があり、どうにもならない欠損感がある。でとそういう限界と引き換えに、まったくの別の国、別の世界の人が一緒に同じように理解できる何かへの通路ができる。言語も、音楽も、文化も、そういうものなんじゃないかと思います。

『音楽は自由にする』坂本龍一p22

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