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【感想】「1%の努力」ひろゆき(2020)

(約3800字/10分)

一言で書くと:1%の努力とは、1%の自由

最近「やる気1%ごはん」というレシピ本をみて「どこが1%だよ!!」とツッコんだ私です。だって1%なのに計量カップ使うんだよ?そんなん米炊く時しか使ってないっす…←ヘタレ

「やる気1%ごはん」まるみキッチン - KADOKAWA

そんな中、数少ない友人から「1%の努力」おすすめされ、前に図書館で読んだけど改めて読み返してみた(都会の図書館はまだ予約待ちらしい)。


自分的概要

ポイントをおさえて1%がんばれば十分生きていける、という自伝的内容。ひろゆきさんより上の世代(努力信仰世代)への反発、下の頑張りすぎている世代へのエールとも読める。

以下、気になったところの感想。

「生きる意味」論

僕は、人生に「生きる意味」は存在しないと考えている。虫や細菌に生きる意味がないのと一緒(略)「人類の努力は、ほぼ無意味だ」

p.19 序文 まずは人生の結論から

新型コロナ&ウクライナ戦争を経た今、説得力マシマシっすね。人類の科学は進歩したけれど、コロナで自由が制限され、そして戦争をやめれなかった。
まあでも、人類は唯一、生きる意味を考えられる生物とも言える。ひろゆきさんは「(p19)死ぬまでにできるだけ楽しく暮ら」さないと、生きてる意味ないじゃん、と考えたとも言える。本当に意味がないなら、生きてても無駄、というニヒリズムだってあるわけで。

「エッグスタンド」論

エッグスタンドとは、食卓のテーブルの上に「卵を置くため」だけにある器のことだ。(略)「ああ、私の家はエッグスタンドもない家なのか。恥ずかしい…」と受け取る人が一定数いるのではないだろうか(略)人を羨んでしまいそうなとき、この言葉を思い出して立ち戻ってほしい。
「エッグスタンドなんて、いらなくない?」

p30 エッグスタンドのある家

もちろん我が家も無い!けど一時、子供の栄養が卵かけごはんで保たれた時期があり(ヘタレ)もしエッグスタンドがあれば、少しウキウキになったかもしれない。ガチャポンの空ケース改良したら作れそう、とか思ってしまった。
この話は、いわゆる超消費社会の今、隣の芝を見てたらキリないよって例と思ったけど、「楽しく暮らす」のに必要かは人によるよね…エッグスタンド、必要かと言われれば不要だけど、「人はパンのみにて生くるものにあらず(モーゼ)」、エッグスタンドはあっていいと思ってしまった(笑)。

自分にとってのエッグスタンドを考えると、高級車かな。愛車のエブリィで十分満足、というか小回り最高。近所のお医者さんが毎日別の外車で出勤してて、いらなくない?と(笑)。まぁ先生にとっては癒しの愛車たちなんだろう。機械に愛がつくのは車だけってトヨタ会長も言ってた。

とにかく、隣の芝生にもやったとき(そうそう先日友達が英検3級受かったと聞いてうちの子も受けさせたほうが!?と思ってしまった)そんなときは「高級車(エッグスタンド)なんていらなくない?」と考えてみようと思った。

「この壺は満杯か?」論

英語圏で有名らしい話。壺に岩と砂利と水を入れるためには些細な砂利を先に詰めてしまうと大きな岩(大事なもの)が入らない。そういや大学院生のとき担当教授に「あなたは何でもできるけど、何もできない」と言われた。今は何でもできる時代だから優先順位が重要って話。これが「睡眠」であるひろゆきさんは、ついでに健康も守られるからいいよね。睡眠のいいところは、限度があるところかな。金持ちとかなら限度ないけど、人間さすがに何日も寝てられないよね。

ちなみにこの壺話を検索すると「マヨネーズ瓶と2杯のコーヒー」という類似も出た。瓶に入れるのはゴルフボールで、それは家族、健康、友人、情熱など、他のすべてを失っても残って人生を満ち足りたものにしてくれるらしい。だから、仕事よりも子どもと遊ぼう、健康診断を受けよう、と。水もコーヒーに例えられ、友人とコーヒーを飲む余裕も必要、と洒落ている。

「自由意志が大きすぎる」論

多くの人は「自由意志」を大きく扱いすぎている。(略)ダイエット本など(略)痩せなかったりするのは「あなたの意思が弱いからだ」と(略)ある意味で最強の思考法である。(略)努力か、遺伝子か、環境か、どれが1つが100%ということはあり得ない。

p201 社会システムが悪いんだ

いやーこんなことも書いてあったんだなぁと。今読んでいる「中動態の世界(國分功一郎)」にもこんな話があって。ひろゆきさんは哲学は勉強不要って言ったらしいけど、やはりおフランスにお住まいだし哲学にも造詣が深そう(フランスは哲学必修らしい)。

中動態の世界はまだまだ読み切れてなくて理解も半端だけど、そもそも人間に「自由意志」は無くて、言語の発達?のなかで、他人を納得させるために?社会に責任というルールを作るために?「自由意志」というファンタジーが作られ、それが今、当たり前に普及している、みたいな話。自由意志の責任を問うたところで(意思が弱いせいだと責任を押し付けたところで)問題解決はしない。ファンタジーという意味では、人生の意味、と似たようなかんじ。今年に入って國分先生の本は数冊読んでて、何一つ消化できていないけど惹かれるものがある…一人称「俺」なのもすごく好き(反れすぎ)
ともかく、ひろゆきさん的には、人類に与えられた自由は1%しかない、とも読めるなぁと。どうあがいても、99%は変えられない、と。

好きでないものを強要されると、人はそれを努力と感じてしまう

p188 トップが下を殺しうる

誰かが「俺はひろゆきみたいになりたい!」と思って、彼のような博識を得ようとしたら、それは99%努力になる。彼にとって好きな事99%の結果として博識があるけど、他者から見れば努力に見える。実は1%の努力ポイントを見出すことと同じくらい、99%は自分の好きなことにするのは難しい。

余談:夏休みの宿題

①早めに終わらせる、あるいは毎日コツコツやるタイプ
②自由工作や絵などに時間をかけて取り組むタイプ
③最終日が迫ってきて慌ててなんとか間に合わせるタイプ

p231 頑張る方法を見定める

こういう庶民的な例もだすのは、そも庶民出身だからなんだね。私は7月中に終わらせるので①だけど、娘は③だから見ててイライラしちゃう(笑)。しかも泣いちゃうしな…でもさっきの自由意志は1%しかない、と思えば、コツコツ努力させるより、せめて最終日を3日早く設定するとかのほうがいい対処になるのかも、と思った。

「サボる才能」論

みんな生きている限り、人も社会も成長していくと思い込んでいる。(略)ずっとダラダラした日々が続いていく。そういう前提で生きていれば、努力が報われなくても生きていける。

p.251 働かないアリであれ

サボるの語源、サボタージュはフランス語で「破壊活動」を意味する。不満がたまった労働者がサボ(木靴)を機械につまらせた説に由来するそうな。巨大な力への抵抗、という意味で、経済成長で思考がパターン化してしまった私たちが、サボることでその幻想をぶっ壊そう、とも思える。まぁぶっ壊さなくても、蓮舫議員の「2位じゃダメなんですか」論を、当時よりずっと受けいれられる私は、だいぶ変わってきていると思う。(このとき予算カットされた京の後継「富岳」がコロナの飛沫分析に活用された事を考えると、他との比較でなく、圧倒的科学力が人々の偏見を払拭できるという意味で必要経費だったのだろう。)

読み終わって:壺には水を入れてもいいんじゃない?

禅とか老荘思想では水を最も尊ぶ。涓滴岩を穿つとか。水は変幻自在なので、壺びっちり満たさなければ、あとからでも岩は入る。しかも、一度入れた岩は取り出すのは手間だけど、水は簡単に取り出せる。これが私の岩や!と思って壺に入れた価値観が実は違ったとき、それが大きければ大きいほど最悪だ。例えば人の役に立ちたい、とか、承認欲求等がからむと危ない。変化の激しい近代、1%の自由しかない人類に、誉れ高い岩を見出すことはできるんだろうか? ゴルフボールにしたって、家族、健康、友人というコントロール不可なものが、人生を満ち足りたものにしてくれるのだろうか?(孫の面倒で躁鬱になった近所のばあさんを思い出す)

なるほど「睡眠」はコントール可能だ。そういえば文中例は、食事や海外旅行、子供との時間など、コントロール可能なもので、それ自体で目的達成する。子供を立派な大人に育てるという目標があったとしても、普段触れ合う時間自体が幸福であったほうがいい。それは一見すると些細な日常で、岩でなく水かもしれない。しかしもはや「生きる意味はない」のであれば、壺を水で満たしてもいいと思う。やなせ大先生に帰結するんだけど、「何のために生きるのか(略)そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び」なんだなと。「奪い合えば足らぬ(みつを)」わけで、私たちは他者が作った物語を気にしなければ、努力は1%で生きていける。やる気1%で美味しいごはんが作れる、そういうことですね(笑、無理やり終わる)。

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