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ショートショート「交差~あるいは離別する縁」

 その日は年の瀬にあってもマフラーがいらないほどの暖かな日だった。だがそれは陽のあたる場所にいるときの話であって、日陰に入れば寒さは身にしみる。公園のよく目立つ位置に孤独に立ち尽くす時計は公園の規模に見合った白いポールの簡素な丸い時計で、その針は午後二時半を告げていた。
 公園から通りを隔てた建物の二階にあるファミリーレストランからは、まるで罰で儲けるようにポールに掲げられた時計が寒風に耐える様がよく見えた。窓際のこの席では視線を動かすだけで手軽に時刻を知ることが出来る。
 ドリンクコーナーからエスプレッソを注いできた男は、公園の時計で時間を確認してから席に着いた。そしてクレマをたたえた漆黒のエスプレッソを一口含んだ。口から鼻孔に芳醇な香りが駆け抜ける。男はしばし目を閉じ、エスプレッソがもたらす幸福感を味わう。そして、ほぅと小さく吐息を漏らした。目を開けた男は、隣の席に置いた鞄から文庫本を取り出し、三ミリメートルほどはみ出たしおりに指をかけてページを開く。
 本を読み始めた彼を気遣った店員が、食べ終えた食器を下げていった。彼は文面から目を離さずに、軽く会釈をする。
 休日の昼下がり、ファミリーレストランで簡単な食事をとり、飲み放題のエスプレッソをドッピオで抽出してのんびりと飲みながら読書をするのが彼のお気に入りだった。
「あれ? 深山君じゃない」
 不意に名前を呼ばれ、彼は文庫本に落としていた目を上げる。彼を呼んだ声の主は、彼と同じ年頃の二十代半ばの女性だ。明るい茶色の髪をショートボブにして、美人というよりは愛嬌のある顔をしていた。
「深山圭一君でしょ? 浅川祐子よ、高校卒業以来だから、六、七年ぶりだね。一人? 相席してもいい?」
 深山圭一が返答する前に矢継ぎ早にそう言った浅川祐子はコートを脱ぐと深山の向かいの席に座った。そして通りかかった店員にケーキのドリンクバーセットを注文する。
「いやあ、本当に久し振りだね。元気してた?」
「ごらんの通りだ」
「その言い方も変わらないね。そういえば、みんなもあまり変わってなかったかな?」
「みんな?」
「昨日ね、玲香たちと女子会したのよ、久々にね」
 深山圭一は相づち代わりに頷きながらエスプレッソを口に運ぶ。
「それで色々昔話に花を咲かせたわけだけど、一つ変なことがあったのよ」
「ほう」
「もう、全然興味ないって顔ね!」
 浅川裕子はまるで少女のように頬を膨らませ、拗ねるそぶりを見せる。きっと学生時代の友人に出会ったことで、気持ちも当時に戻っているのだろう。だが深山圭一の方はまったく雰囲気を変えようとはしない。それは頑なな様子ではなく本当に興味を抱いていないといった感情だった。
「まぁね、正直言ってそれほど興味がない」
「そう言わずに、聞いてよ!」
「そう熱くならずに、まずはドリンクでも取ってきたらどうだい?」
「……そうする」
 浅川祐子はそう答えて、ドリンクバーコーナーへと向かった。その後ろ姿を見送って、深山圭一は読みかけでずっと指を挟んだままだった文庫本にしおりを挟み直す。そして小さなため息を一つついて、文庫本をカバンの外ポケットに仕舞った。
 戻ってきた浅川裕子の手には紅茶とミルクポーションが二つあった。
「やっぱりケーキセットにはミルクティーよね。そういえばドリンクバーってカフェオレやカプチーノはあるのに、どうしてミルクティーはないのかしら? せめてホットミルクだけでもあればロイヤルミルクティーが作れるのにね、そう思わない?」
「なるほど。その考えはなかった」
「でしょ? 紅茶党って少ないのかしら?」
 そんな話を射ていたらちょうど店員がケーキを運んできた。薄いクリーム色の三角柱に紫のペーストが掛かっている。ブルーベリーチーズケーキであろう。浅川裕子はケーキのとがった先端側をフォークで掬い取り口に運ぶ。そして嬉しそうに目を細めた。深山圭一はエスプレッソを口に運びながら、彼女のころころと表情が変わるさまを眺める。
「そうそう、話の途中だったわね」
 ブルーベリーチーズケーキが半分程なくなるまで食を進めてから、彼女は思い出したように話に戻る。
「女子会で変なことがあったって?」
「そう」
 フォークを皿に置き、浅川裕子はミルクポーションを二つ入れた紅茶のカップに持ち換える。紅茶で口の中を整えてから改めて話始めた。
「私たちのグループの中心だった玲香、覚えてる? 久々に集まらないかって連絡があって、昨日、女子会をしてきたのよ」
「ふむ、それで?」
「玲香の他にもあと二人来てて、私を入れて四人だったんだけど、私が一番仲の良かった和美が来ていなかったんだ」
 そこまで言って浅川裕子は紅茶を口に運ぶ。深山圭一は黙ったまま彼女の話の続きを待つ。
「和美とは卒業してから年に二、三回は会っていたんだけど、去年から全然会ってなくてさ」
「それは、どうして?」
「携帯を失くしちゃってさ、連絡できなくなっちゃった。そのうち和美の方から連絡が来ると思っていたんだけどね」
 昔はアドスレス帳などを用意していたものだが、携帯電話の普及とともに紙の文化は勢力圏を奪われ、記憶のストレージは電子機器に移行していった。その弊害は今回のように携帯電話をなくしたり、壊したときに露呈する。
「クラウドに上げてなかったの?」
「クラウド? あー、私そういうのって疎くてさ。教えてくれないと出来ないんだ」
「ちょっと調べればすぐにわかることなのに、それさえ惜しむとは愚かなことを」
「うわっ、出た! 深山くんのそういうところ、全然変わってないね」
 浅川は頬を膨らませて拗ねるそぶりをする。だが頬が膨らんでいるのは怒っているためではなく、頬張ったチーズケーキのためだ。
「そういうわけで、昨日の女子会が久々に会うチャンスだったんだけど、来なかったんだ、和美」
「ここまで聞いてもどこにもおかしなところはないようだが」
「ああ、それね。玲香に和美に連絡したのかって聞いたんだけど、帰ってきた答えが……『ここにいるメンバーにしか連絡してないけど?』」
 ここまで聞いてもまだおかしなところはない。深山の表情が変わらないことで、浅川がさらに先を進める。
「それで私、和美の連絡先を教えてもらおうとしたんだけど、集まった誰も連絡先を知らなかった……ううん。正しくは、誰も和美を知らなかった」
「忘れていたのではなくて?」
「誰に言っても、そんな人は知らない、高校時代もそんな人はいなかったって言うのよ。おかしくない?」
 いつも一緒にいたグループで浅川裕子を除いた三人が知らないということはあり得るだろうか? 深山は考える。
「可能性の一つとして、三人が君に嘘を言っているというものがある」
「そんな感じじゃなかったな。あの空気、私がとんでもないことを言い出したってリアクションだった。それに玲香はそういう冗談が嫌いなタイプだったから、やっぱりありえないと思う。もう、本当に何なんだろう?」
 両手で頬杖をついて浅川裕子はほとほと困り果てたという表情を浮かべる。そして『謎を解いて』と言わんばかりの視線を深山に投げかけてる。深山は軽く腕組みをして、その期待に応えるように返した。
「ならば、かなり低いが一応別の可能性もあるか」
「どんな可能性?」
 まさか答えを得られると思わなかったのか、浅川裕子は身を乗り出し、飛びつかんばかりの勢いで詰め寄る。深山は静かに人差し指を口の前に建てるゼスチャーをして、浅川を落ち着かせる。
「あ、ごめん。 ……で、どんな可能性があるの?」
「君は『マンデラ効果』というのを知っているか?」
 深山に聞きなれない単語を返され、浅川は気勢をそがれる。
「ナニソレ? 初めて聞いた」
 キョトンとする浅川に深山は説明を始める。
 マンデラとは一九九四年に南アフリカで初の黒人大統領となったネルソン・マンデラから来ている。だが何故か一九八〇年に獄中死していたという記憶を持つ人が大勢現れたことから、この名称がついた。
「つまり、マンデラ大統領は生きてるのに、昔に死んでいるという間違った記憶を持ってる人がいたってこと?」
 話を飲み込むため、そして確認するために浅川は声に出す。それを聞いて深山は頷く。
「ああ。君の言う通り、間違えた記憶なのかもしれない。ところで、パラレルワールドという言葉は知っているかい?」
 深山はさらに日常会話では使わない単語を口にした。今度は浅川も頷く。
「それはさすがに知ってるわ。この世界と似て異なる平行世界ってやつでしょ?」
「その通り。平行世界は普通は交じることはない。だが何らかの理由で二つの世界が混じり合ってしまったとしたらどうだろう?」
「その一つがマンデラ氏が獄中死した世界ってこと?」
 深山は満足げに大きくゆっくりと頷き返す。
「物分りが良くて嬉しいよ。これはあくまでも仮説だったけど、君の言葉を聞いていたら実は正しかったんじゃないかと思えてきた」
「そんなバカみたいなこと、あるわけないじゃん! きっと玲香たちが偶然忘れていただけだよ! それか……私の記憶違いか……」
 浅川裕子の声が徐々に力ないものになっていく。だがそれを無視するように深山はスマートフォンを手に何かを調べている。
「そうだね、君の記憶違いなのかもしれない。三人が揃って忘れるという偶然より、君一人が間違えている可能性のほうが起こり得る確率だ」
 そこまで言ってから深山は調べ物を終えたのか、スマートフォンから顔を上げる。
「ところで、君と僕は同級生なわけだが……」
 同級生と言いながら、深山の口調はどこか他人を指しているように感じる。それを淺川も感じ取ったのか、どこか居心地の悪さを感じて眉をしかめた。
「それが?」
「同級生だったのは中学校ではなかったかい?」
「そんなことないよ! いくら私でもそこまで記憶違いはしないん! ……あ、証拠! 証拠あるから!」
 鞄の中から使い込まれた手帳を取り出し、浅川はページを捲り始める。彼女の手帳にはファイリングページがつけられていた。そのファイルの中から一枚の写真を取り出し、深山の前に置いた。それは修学旅行の一コマであろうか、少人数のグループが写っている。もちろん、その中には浅川も深山もいた。
「これが私で、隣が和美、逆隣が玲香。ここに写ってる男子、深山くんだよね?」
「確かに僕だ。隣は高橋だな……」
「ほら、やっぱり私の記憶違いじゃなかった! ……ああ、しまった! 玲香たちにも見せればよかった!」
 深山は自分の隣に写っている男子が、同級生の高橋であることを認める。着ている制服もブレザーだ。深山の中学校は男子は学生服、女子はセーラー服だったので、このブレザーを着た写真は明らかに高校時代のものだ。
「これは驚いた」
「なんで驚くのよ?」
「マンデラ効果は、実在するかもしれない」
「そのマンデラ効果って、一定の人の記憶違いのことでしょ? これはちゃんと証拠があるんだから違うでしょ」
「そっちじゃない。パラレルワールドの方だ。やはりマンデラ効果はパラレルワールドで間違いないだろう」
「それこそ信じられないよ。私はこうして和美がいたことの証拠を示したじゃない。だけど玲香たちは和美がいなかった証拠をだしてないもの。普通に勘違いでしょ?」
「これを見てくれるかな?」
 深山は自分のスマートフォンを、浅川側に向けてテーブルに置いた。浅川はそこに表示された記事に目を向ける。それは古い新聞記事だった。
 
大型トラック、カーブを曲がりきれずに事故
通行中の女子中学生が死亡

昨日の午後七時頃、市内の旧道にて大型トラックがカーブを曲がりきれずに横転する事故があった。その事故で運転手は重症、通りかかった市内の女子中学生、浅川裕子さん(15)が巻き込まれ全身を強く打って病院に搬送されたが、死亡が確認された。

「……え?」
 浅川はそこに自分の名前を見つけ、目を疑った。
「僕も同姓同名かと思った。だけど、顔写真が載っているだろう? そして僕には君の葬式に参列した記憶があるんだ」
「……」
「葬式の記憶だけなら僕の勘違いと言えるかもしれない。だけど、こうして証拠がある。さらに君の持つ写真も君の体験が正しいという重要な証拠だ。そして、この二つの証拠は同じ世界では並び立たない」
「こんな……ことって……私……死んで……」
「早とちりしないで欲しい。僕は君が死んでいるとは言っていない。君は確かに生きている。ただ僕の生きてきた世界とは違っていただけだ。そしてパラレルワールドは時に交差し、別の事実を持ち合わせた人間が出会うことがある。どちらかが正しいのではない、どちらも事実なんだ」
 深山の言葉を浅川がちゃんと聞いているのかどうかはわからない。だが深山は言葉を続けた。その姿は普段の物静かな彼からは想像つかないほど饒舌だった。
「少なくとも、今ここには三つの世界があることは提示された。君と和美さんが友人であった世界。君と友人たちの中に和美さんがいなかった世界。……そして、僕が知る世界」
 あえて浅川が事故死した世界と言わなかったのは、深山の気遣いだろうか。
「きっと世界は平行ではなくどこかで交差することがあるのだろう。だから……」
 そこまで言って深山はふと気づいた。このテーブルには自分しかいないということを。
 いつの間に消えたのだろうか、浅川裕子の姿はそこにはなかった。彼女の持っていた手帳もバッグもない。ただ、彼女の食べ終えたブルーベリーチーズケーキの皿と、飲みかけの紅茶だけが残されていた。
 深山圭一は落ち着きを取り戻すようにゆっくりと呼吸し、窓の外に目を向ける。
 寒風に耐える公園の時計は午後三時になろうとしていた。
 約三十分、深山と浅川の世界は交差し、そして離れていった。
 深山は空のカップを持ちドリンクバーに向かう。そして今度はミルクのたっぷり入ったカプチーノを注いで席に戻った。
 彼の席からは公園の時計が良く見える。それは小さな公園には不似合いなどっしりした四角い時計だった。


《終》

ゲーム業界に身を置いたのは、はるか昔…… ファミコンやゲームボーイのタイトルにも携わりました。 デジタルガジェット好きで、趣味で小説などを書いています。 よろしければ暇つぶしにでもご覧ください。