生きてて欲しいと願うこと。

自分の人生なんてものは常に不幸がついて回って当たり前だと思っている。見た目も中身も人並み以下で、産まれも悪く、非才なうえに、大の努力嫌いに出来てるんだから、それは仕方とないことだと半ば諦めている。

なんだか偉そうに己が運命を諦観した様に「諦めている」と語ってはいるものの、実際に不幸が訪れた際は、人並外れた打たれ弱さと、自分の無能を棚に上げた被害者意識の塊みたいな私は、もう精一杯に打ちのめされて、そろそろ中年に差し掛かろうとするにも関わらず、まるで幼児の如く傷つき、のたうちまわり、無闇矢鱈に社会の慣例やシステムを呪詛して、自分にとって世界で一番尊い我が身を庇護するのである。

そんな愚かの塊、社会の底辺、排水溝に湧いたゴキブリ以下の私ではあるのだけれど、ごく稀にこれは単なる自己愛の発露なんかではなく、ちょいと冷静かつ客観的にみても、十分に可哀想な身空だと思われる時もある。それが今なのである。

最初に言っておくと、今私はこの上なく悲しい。なんだか全てのことが全く手につかないほど、激しく心が狼狽していて、私のセールスポイントであるオモシロ発言や、馬鹿話すらも全く出てこない。なぜこんなに悲しいのかうまく説明できないのだけれども、精一杯頭を使って簡潔に述べるのならば、私以上に悲しい境遇にいる友人が現れてしまったのだ。

友人なんて、何だか単語の割にはあまり近しくない感じの言葉を使ってしまったが、これだとイマイチ距離感が伝わらない。もっと有り体に言うならば元カノに辛いことが起きてしまった。と言うか、

要するに元カノが癌を患ってしまった。と言うことだ。

この報告は本人から昨夜に電話で知らされた。明細はあえて書くことを避けるのだけれども、電話にて、その事実を知らされた時に、私は本当に目の前が真っ暗になってしまった。

たった一言「なんで…」という言葉しか出てこなかった。これはもちろん「何でよりによってあなたが…」というニュアンスの「なんで」であった。(決してピスタチオの往年のギャグ的な発音ではない)


ここで私と彼女のこれまでの関係性を少しだけ書いておきたいと思う。

私のこのnoteやTwitterを見てくれてる人なら、何となくご承知おきいただいてると思うが、私はモテもしないのに女癖が悪く、中身がなくて、相手を慮るよりも先に自らの保身に奔走する、令和の時代に全く需要のないタイプの屑である。

そのくせ妙に自己愛だけは強く、平気で人を値踏みしては見下す小狡さと、泥酔した際には暴力こそ振るわぬものの、汚い詬罵(こうば)の限りを女性に叩きつける冷血さを備えているハイブリッド屑男でもある。

そんな私は当然にして、女性から地金が出る前の最初のSEXこそさせて頂けても、その後のリピートは一切に拒否されてしまう。どうやら私のような屑チンポに、ウッカリと股を開いてしまった女性は、自らのその股の緩さを恥じて、この一度きりの間違いを「黒歴史」として精神の奥深くに刻み、私の存在自体を表層的な記憶部分からアッサリ削除してしまうのだ。

つまり彼女たちは「屑男とはヤらない」というルールの一文だけを心に刻み、そのルールの発端となった私の記憶は消して、今後は私と同じ部類に区分けされる屑を一切にノーセンキューとして生きていくらしい。

まぁ話はそれたが、そんな私は当然にして女性たちからは人間扱いされることもなく、ほとんどの場合が、もはや疫病や厄災のように忌み嫌われてしまう状態となってしまう。

ところがどっこい、すっとこどっこい、てやんでえ。で、私はこの私の駄文をわざわざ読んでくださるような、聡明かつ慈悲深いあなた様にだけ伝えたいが、「盗っ人にも三分の理」とは言ったもので私にも言い分があるのです。

それを極めて簡潔に言うならば、そもそも私如きにウッカリ股を開く、性欲メスチンパンジー共は、往々にして皆一概にバカでマヌケで、己の股のぬめりもコントロール化におけない上半身と下半身が別々に動く精神のアナーキー売女で、もはやただのマンコである。

脳みそが政府で、下半身が軍隊と例えるなら、後々に考えれば間違いとわかることを、下半身の暴走でやらかすなんぞ、全くシビリアンコントロールの効いてない、ミャンマーみたいな女なのです。つまり、こんな軍事国家みたいなパッパラパーの膣袋に人間扱いされようが、されなかろうが全く無問題なのです。


…とここまで書いたところで、話がえらく脱線してることに気がつく(まるで、マンコと間違えてアナルに挿入してるくらい話がそれてる)

えー本来の話は、癌になった元カノと私の関係性でしたね。そのつまり、彼女はそんな屑の私を、それこそ人間扱いしてくれて、たまたま男女の仲だった関係は終わってしまっても、その後も定期的に連絡を取ったり、会ったりとしてくれたとても心根の優しい女性なのです。

もう別れてから、ずいぶんと経つのだけれども、その間も二人で飲んだり、一緒に旅行したり、忘れた頃にどちらかが電話をかけて、お互いの近況や悩みを報告しあったりと言った感じで、途切れることなく関係を続けてくれた、私に取っては唯一無二の存在だったのです。

付き合っていた頃は些細なすれ違いで衝突したり、お互いの不備を罵り合ったりと、まるでどちらも得をしない、ただお互いが傷つき合うだけの悲しい争いもあったけど、別れてからは不思議とお互いがお互いを労わり、気遣い、慮り、なんだかすごく居心地の良い関係になっていた。

でも、それは互いがお互いの一番でなかった故の心の余裕だったかも知れないけど…(お互いにそれぞれ彼氏も彼女もいたから)

そんな彼女は、私に取ってもはや性別を超越した心許せる人となっていたと思う。

また話が逸れるとややこしいので簡潔に書くが、私は唯一の身内である親や兄弟とも絶縁状態であり、おそらく死ぬまで会うこともないので、なんだか我知らずの間に天涯孤独になっている。それなので余計に彼女の存在は大きかったと思う。

そんな彼女が若くして癌になってしまったのだから、もう私は全くどうしたらいいのか、わからないのだ。

べつに別れた後も連絡を取らなかった時期なんて普通にあるし、ここ3年で実際に会ったのも3回くらいだと思う。数字にしてみれば、この先に会う回数(あくまで予想だけど)もたいしてないだろうし、もしどちらかが結婚でもしたら、すっかり疎遠になっていたかも知れない。

それなのに、それなのに、なんだか悲しくて仕方ない。

いや、包み隠さず言うのならば、祖父が死んだ時にも涙を流さないような、薄情で血も涙もない冷血漢の私が、不思議と今日も仕事中に目頭が熱くなってしまった。本当に情緒不安定なOLみたいで、そんなメンヘラみたいな自分が、どうにも汚らわしくて、思わず自分で自分を蹴殺してやりたい気持ちになってしまい、もう全く訳がわからない状態の一日だった。

今もこうして、彼女への自分の思いと、悲しみの整理と、今の気持ちのメモとしてnoteを書いているのに、変に露悪的になってしまい、訳のわからぬ女性蔑視を書き殴ったりと全くの前後不覚状態である。これを錯乱ということだけしか、今の私にはわからない。


それでも、それでも、何とかこれを書いている理由は、昨日彼女と電話して、電話口で彼女が語ったことを忘れぬうちに、自らの気持ち共々と書き残しておきたいからだ。


彼女は言った。

癌になったことを家族に教えない。高齢の両親は心配性だから、私が戦っていると知ったら、全部放り出して来てしまう。ちゃんと治してから、報告する。絶対そうする。もし、あり得ないけど、もしもダメそうだったら、もちろん報告して最後の時間は親と一緒にいる

子宮癌だから子宮はなくなっちゃう。子供はもともとできにくいって言われてたから、それは仕方ない。5年生存率は65%くらいって言われた。たぶん大丈夫だと思う

髪の毛と眉毛が全部なくなるのが嫌だな。せっかく髪伸ばしてたのに。あぁもし死んじゃうなら死ぬ前にめちゃくちゃ整形したかったな

来週マツエクの予約あるけど、どーしよ。どうせ抜けるけど、一応やっとこうかな

苦しいのが続いて結局死んじゃうのが一番嫌だな。なんで日本は安楽死がないんだろ。助からないってわかった後に、色んな人に迷惑かけたくない

私が癌になったこと誰にも言わないでね。もちろん何人かには伝えたけど、あまり知られたくない

コロナのせいで入院中は誰にも会えないみたい。だから面白いNetflixのドラマとか教えて、あっできれば病院系のドラマ以外のやつ

癌って言われた時は、どうしていいかわからなかったけど、今は覚悟できた。この先はまたわからないけど

死んじゃったら生まれ変わったりするのかな

ちゃんと治して、また色々と頑張らないと


…まだまだ彼女は色んなことを言っていた気もするけど、弱気と強気が行ったり来たりで、覚悟できてるようで不安だらけで、私を気遣ってくれてても、たまに恐怖からの本音が混じってて、、

私はどう答えていいかわからず、努めて明るく返してたつもりだったけど、いつもみたいに不謹慎なギャグを言ったり、露悪芸で自らを卑下してみたり、ヨイショ芸で彼女を褒め称えたり…。でも殆どがスベッていた。なんか、とても虚しく言葉だけが、プカリと宙に浮かんでくみたいだった。

それでも彼女はその虚しいギャグにも笑ってくれていた。あぁなんで逆に気を遣わせているんだ、と自らの不甲斐なさを痛感した。

こんな時にかける言葉なんて、本当にこの世にあるのかと疑問を持った。こんな時に寄り添える人間なんてこの世にいるのかとも疑問を持った。そして、なによりこんな時にも、全く何もできない自分を心から呪った。でも、きっと人間なんてそんなもんだと諦めもついた。


文学を勉強してると、いつもそこには死がついてまわる。それはすでに没してしまった作者が生前の在りし日の苦悩や葛藤を書いているからだ。

澁澤龍彦は文学者を「超越を志向する者」と表現した。これはおそらく全ての芸術家に当てはまることだと思う。人間とは我知らずのうちにこの世界に投げ込まれている存在である。

科学が解き明かしている範囲で言うなら、自我とは記憶情報の現在の形に過ぎず、魂は存在せずに精神は神経細胞の火花である。そして神のいない無慈悲な世界の中で、生まれてから死ぬまでたった一人で生きなくてはいけないのが人間である。

孤独は陥るものでなく、人は最初から最後まで孤独である。それなのに、近しい人を失いそうになるのを辛く感じてしまうのが人間だとも思う。

文学というか、全ての芸術とは、この無慈悲への反発である。抗いである。科学が解き明かした事実に対して抗い、否定して、また否定して、意志という解き明かすことのできない、存在してるかしてないかもわからない、いっときの生きてる間だけ、自らの中にある(と思われる)意思だけで戦うことが芸術の全てである。

そして、結果として人間は何もなし得ぬまま死を迎える。意志は常に無慈悲な世界に敗北を繰り返す。それがきっと芸術の全てであって、澁澤龍彦の言う通り、文学者は「超越を志向する者」であって、決して超越者ではない。決して叶わぬ超越を目指すことしか人間には出来ないのだと思う。


そうした無慈悲な世界と戦い、意志と共に散っていった文学者を研究している私は、この世界で人間が生きて、そしてただ死んでいく姿を嫌というほどに理解しているつもりであった。

それなのに、やはり願わずにはいられない。

西村賢太が、生前にどんなに栄華を極めても、どうで結局は皆骨壷に入るのだとのことを書いていた。現世のいっときの勝ち馬も負け犬もみな死ぬというのが、人間にとっての唯一の救済措置だというその言葉に私は心底得心した。

それでも、願わずにはいられない。

彼女には、まだ生きていてほしい。平均寿命から言ったら50年後にはお互いにそれぞれ違う骨壷に収まっているとしても、それでも生きててほしい。

文学を志してから、15年がたった。とっくにそう言った甘な感情から離れて、自分が何か死の外側から書ける人間だと思い込んでいた。

この際、そんな些末な自己陶酔の正誤なんてどうでもいい。願わくば、生きて欲しい。治って欲しい。それ以外、何にも思うことがない。それほどに、狂おしいほどに彼女に生きていて欲しい。

つらつらと意味不明なことを書き連ねてきたが、ここまで色々書いて、理論をこねくり回して、蛇足に蛇足を連ねてきたけど、今はそれだけしか思えない。生きてほしい。

彼女が必ず治ると心から信じて、心から願っている。


なんだか、いつもと違うテイストのnoteでしたが、読んでくださりありがとうございました。

おわり

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