2014/11/17 家族という集団の奇妙さ

前の日記からいつの間にか1週間も経ってしまい、自分の飽きっぽさに驚愕するとともに、いや俺なんてこんな感じだよねと自分に納得する部分もある。いろいろと書き留めたいことはたくさんあったのだが、書く時間がなかったと言い訳しておこう。

この週末に法事があり実家に帰った。新潟市から北陸自動車道へ上越へ、そこから上信越道で長野、長野自動車道で岡谷、中央自動車道で伊那市まで向かった。4時間弱、高速代が6千円以上かかった。ガソリン代が安くなっており伊那市へ向かう2日前くらいに147円で満タンにしておいた。

さて、法事といえば家族や親戚が揃うわけだが何とも言えない人の集まりだなぁと思った。僕は新潟市に一人で住んでいて、家族も親族も近くにいない。だから滅多に会うことはない。しかも、会社にも行っていないので、会いたいと思わない人に会うことはほとんどない。話したい人、話が合う人に目的を持って合う。

だから、僕にとって人に合ったり話したりするのは生産的な行為と言える。

そんな僕は、久しぶりに家族や親戚で集まった時に、その会話の「非生産性」や上辺だけをなぞる「つまらなさ」に驚愕してしまった。好きな作品について語り合うとき、日本の経済の行方についえ案じているとき、そんな会話とは無縁の家族や親戚との近況報告や場をもたせるだけの会話。この空気感は何と例えればよいだろう。

僕が特殊なのかもしれない。個人事業主で、人と合うのは必要な時で、インターネットで趣味嗜好の近い人とばかりコミュニケーションを取っている僕だけが特殊なのかもしれない。ただ、気が合う人、話をしたい人、趣味嗜好の合う人とだけコミュニケーションを取るというのは、とても気楽で、充実感もあり、発想も生まれるなど非常に生産的だ。

そう言えば「最近嫁と話すことがない」なんて友人の話も聞く。一体なぜ趣味嗜好も合わない人間と、一緒に住んで毎日顔を合わせる生活をするのだろう?

私の母は本当に大変で、義父母との同居から、2人の介護までやった立派な人だ。何が楽しくて趣味嗜好も合わない血もつながっていない人と暮らし、人の親の面倒を苦労して最後まで見ていたのだろう。そのつらい状況を見て見ぬふりして県外に一人でいた僕は頭が上がらない。ナイチンゲールってやつは所詮仕事で金をもらいながらやっていただけの「職業白衣の天使」で、決して好きでもなかった老人二人を介護した我が母こそが「天使」だとも思う。

冷静に家族を見てみると、父も母も、姉も、弟も、僕とは趣味嗜好が違う。姉などは完全に価値観が合わないし、父母とも思想の違いが多くていつも言い争いになる。家族でなかったらこの人達とこんなに話すこともなかっただろうし、慈しむこともなかったと思う。僕が父母の子でなければ、おそらく父母にとって僕という人間は軽蔑の対象でしか無かったような気がする。「嫌なやつだ」と早々に人間関係を切られていただろう。しかし、たまたま息子だからこんなにも目をかけ、世話してくれて、今も本当によく面倒をみてくれている。ただ血がつながっていたというだけでだ。これはすごいことだと思う。

それでもまだ一緒に住んでいただけあって、家族は会話の前提条件がそれなりに揃いやすいので、そこまで一緒にいて違和感を感じるということはない。しかし、別の家庭で別のルールで生きてきた親戚なんて、極度なまでに価値観があわないのは当然である。そもそも前提条件を共有していないのだから、生産的な会話など望むことはできない。当たり障りない会話をするしかなく、一族でなかったら絶対に話すことはない。

繰り返しになるが、今僕は一人で、何のしがらみもない。

そんな僕から見ると家族という集団が非常に奇妙に見えた。「たまたま家族だった」「たまたま血縁だった」という偶然が、個人の人生に絶大な影響力を与えるというのは幸せなのか?不幸なのか?何だかとても気になっている。


2014年11月17日

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唐澤頼充

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