2014/11/5 図書館に圧倒され、そして泣き崩れたくなる

11月1日に新潟大学の図書館に行ってきた。11月2・3日と新潟県長岡市山古志村に行く予定で、その事前情報を仕入れるためだ。僕は郷土史が好きなので、その地域のことをある程度知ってから訪れたほうが楽しみが増える。

さて、山古志のことを調べたのは2014/11/4の日記に書いたので二重には書かない。今日はその図書館で圧倒されたことを書きたい。

僕は普段インターネットばかりをしている人間で、いい大人になってからは情報を仕入れるのに、図書館や本屋よりも、googleに頼ってきた。我ながら検索スキルはすごい腕前だと思っている。インターネット検索は「何でも見つかる」と思いがちであるが、基本的にキーワードを叩いたものしか検索することができない。さらに、パソコンの画面以上に検索結果が並ぶことはない。目に触れる情報は限られているというのがインターネット検索の特徴だ。

一方で、図書館や本屋に一歩踏み込めば、全く目的でない情報が視界を埋め尽くすどころか、視界に収まりきらない。360度情報の海にダイブすることになる。この感覚は2010年頃から抱いていて、近年ますます増している。この情報量が単純に怖いと思うほどだ。これは私が高校生の頃からネット検索ばかりしていたから身についた感覚かもしれない。

いや、しかし最近外を歩いているとスマートフォンばかり見ている人がたくさんいる。一見情報を常にみているようであるが、実はスマホはあの5インチ程度の小さな画面にしか情報が並ばない。目線を上げればもうわけがわからないほどの情報の海がある。それでもスマホを見てしまうのは、現実の情報を処理しきれないから怖くてスマホに逃げているのかもしれない。

話が逸れたが、とにかく図書館や本屋のような本棚が大量に並んでいる空間は、絶対に自分が処理しきれないであろう情報を見せつけられるようだ。立ち止まって周りを見渡すと、僕は情報の氾濫に足がガクガクしてきて、おしっこを漏らしそうになってしまう。自分は何も知らないちっぽけで小さな人間のように見えてしまうし、絶対に読みきれない情報量にもう「降参!」と叫びたくなる。

そんな図書館に行ってきたわけだが、今回の目的は「山古志」の情報を集めること。つまり郷土資料などを中心に扱っている区画を探すことになる。そこには、目的の本以外にも魅力的な本がびっしり。「食人」や「生贄」の話や、「うんこ」や「奇祭」の話など地域の風習にまつわる書籍が満載だった。これはネットでは絶対に出会えない情報だと思った。

情報の深堀りにインターネットは最適かもしれないが、出会いは少ないと感じだ。リアルな空間で情報に囲まれたり、新しい場所に行った時などに新たな情報との「出会い」は生まれる。もっとリアルで動きまわらねばと痛感した。

さて、僕は一応「ライター」の端くれで、そして地域の文化や資源について書き残そうと思っている。理由はいくつかあるのだが、大きな理由は「滅び行く地域や文化、風習を書き残せば、村は滅んでも記録・記憶として生き続ける」と思っているからだ。そして何かいい仕事ができないかと、プラプラプラプラして生きている。

しかし、図書館に来て郷土の本棚の前に立てば、もう既に記録された情報が腐るほど並んでいる。僕は泣き崩れたくなった。僕が書き残すべき仕事などもうないと言われている気分になったからだ。書き残されていない情報を探すためにはこれを全部読まなきゃならない?「ムリムリ!!」。僕はもう「僕が世界で最初に見つけた発見」など出来ないということを、改めてこの日悟った。

ネットやfacebookには、まるで自分が一番最初に見つけたかのように物事や思想を投稿する人が多い。そういう人は、ゆっくりと図書館にでも来た方がいい。きっと恥ずかしくなって何も投稿できなくなると思う。思想もビジネスも、郷土史も何もかもだ。何もかもが「既に発見されている」のだ。

もうイヤだ!と、途方に暮れてしまう。

これを受けて、一体自分に何が出来るのか?と自問自答してようやく導き出したことが有る。それは「流通業になろう」ということだ。郷土の記録や記憶は既にある。ただ、多くの人に発見されていない。であれば、その情報にアクセスしやすいように、解釈しやすいように、わかりやすくして「情報を流通させ続けること」に価値が有るのではないか。僕のライターとしてのあり方は、「情報流通業者」として、ある情報をある人の所に届けることなのかもしれないと思った。

2014年11月5日

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唐澤頼充

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