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解釈―『中動態の世界』⑤僕が解釈する『中動態』―終わり

四部でまとめようと思ったところ、思いのほか言いたいことが多くて終わらなかったので延長戦に突入しようと思う。これで終章だ。

僕が感じる中動態

僕はアルコール依存症者の自助グループに学生の頃から何度か参加させてもらった経験がある。
そこでは依存症者たちが自身の体験談を話すのだが、たった1つだけルールがあった。『言いっぱなし・聴きっぱなし』である。
話す人が話すがまま、聴く側はただ聴くだけで、感想も述べないし、アドバイスもしない。

僕は最初このグループがアルコール依存症者の何に役立つのか全く理解できなかった。
何故、話を聞いている人達は何も言わないんだろう?せっかく話す方は勇気を出して自分の体験談を(中には言いたくないだろう辛いことなども)話しているのに。アドバイスの1つでも、いや感想だけでもフィードバックしたらいいのに。
そんな風に感じた。

しかし、今は思う。あれこそ中動態の世界だったのではないかと。
依存症はその病気そのものや依存物質、病気に至るまでの過程や環境など、様々な外部要因が本人の本性を圧倒している。
その中で本人が自身の言葉でただ語るというのは、いつもより少しだけ多くの自由(本性)が表現される時間なのではないか。
もちろん完全な自由ではない。かといって完全な強制でもない。ただ”あるがまま”を『言いっぱなし・聴きっぱなし』で成立させていた。

僕が最初「アドバイスした方がいい」「感想を言った方がいい」と感じたのはまさに能動/受動の二択の世界に住んでいたからだ。
その世界に住んでいるとあるがままに存在することは「何もしていない」ことと錯覚し、居心地悪さを感じてしまう。
もっと言えば「価値がない」と思ってしまうのだと思う。
この現象が言語学的側面からの解釈で述べた、”能動態と受動態と同じ地位に中動態がなければ、その表すところは結局「する/される」に先行される”ということだ。

これは依存症など特殊な状況下に限ったことではない。普段の生活、ビジネス、教育など様々な場面でも同様のことだと思う。

する される しなければならない なぜしたのか だれにされたのか

そのような思考の拘束具をいったん外そう。
まずはただ眼前の存在をあるがまま捉えてみよう。
”ある”ことを、「自然の勢い」で”なる”ことを、その人の「本性」を。
何か為さなければ価値がないなんてことはない。
あるがままを捉えることは存在の価値を認めるということだ。
中動態とはこの世界に生きる僕達にとって少しだけ自由になるパースペクティヴなのだ。

終わり

<前回まで>

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