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解釈―『中動態の世界』 ②言語学からみた『中動態』

第一部では本書の大筋を述べた。この第二部では本書の主人公である『中動態』について言語学的側面から理解(解釈)していこうと思う。
※何故、言語学で解釈するかの理由は第一部で述べたとおり。

実は『中動態』は”新たな発見”ではない。”失われた”言語態だったとのことである。
なんと昔は能動態と受動態ではなく、「能動態と中動態」の2言語態が存在していたとの衝撃的な事実が本書では取り上げられている。受動は中動態の中に構成される要素の1つだったというのである。

ちなみに『中動態』という、まるで「能動態と受動態の中間」というような誤ったイメージを与えかねないこのネーミングは、既に能動態と受動態の世界が出来上がった後に翻訳されたものだから、との示唆深い指摘も述べられている。

能動態と中動態の2言語態の世界での能動態の定義は、能動態と受動態の世界での定義(つまり「する/される」)とは異なる。

そこでは能動態は「動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程」と定義され、肝心の中動態は「動詞は主語がその『座』となるような過程を表している」とされている。

まったく何を言っているのかわからないと思う。
よって、この定義は頭の隅に置いておくだけでいい。

ここから僕の解釈だ。
「する/される」に対して、『中動態』とは「ある・なる」などの自動詞、または「れる・られる」の助動詞などで表される「出来事の表現」や「自然の勢い」が実現される様を表現するものである。
例えば、「思い出される」などだ。

このように中動態の担当していた意味は、今は自動詞や助動詞、受動態などに分割されて受け継がれている。
ここで1つの疑問が浮かんでくる。「じゃあ、それでいいじゃん」と。
元々あった『中動態』というカテゴリーが無くなったのだとしても、その機能を引き継ぐものが現存しているのであれば問題ないじゃんかと。

しかし「能動/受動ではうまく理解できない事象がある」という事実は厳に存在する。

この葛藤に対する僕の仮説はこうだ。
能動態と受動態と同じ地位に中動態がなければ、その表すところは結局「する/される」に先行されるのではないか。

「自然の勢い」などを表現する中動態に対して、能動/受動態は行為の帰属先を求める。「誰が」したのか、「誰に」されたのか、である。
それは言い換えれば、意思と責任を常に求めている。

「する/される」では一概に説明できない事象が世界にはある。しかし、まず最初に行為の帰属の”検閲”が入る。この段階で無理に意思と責任を求められることで誤解されたり、無視されたりするものが生じる。それが「うまく理解できない事象」ではないか。
この問題を解決するためには検閲後ではなく、”検閲官”に中動態を採用しなければならない。

以上、ここでは言語学的側面から『中動態』を見てきた。次回は哲学的側面から解釈していきたいと思う。

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