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noteを始めたきっかけと、続ける理由

先月初めてnoteを公開してから、25日が経った。

でも、noteに登録して、初めて記事を書いたのは、もう2年も前のことだ。

2年前、私は大学の友人の1人が亡くなったと聞いた。それから途切れなく湧いてくる悲しみやら、絶望やら、やりきれなさなど、泥のように重くのしかかってくる感情を、どうにかして昇華したかったのだと思う。

その泥のようなものの中から、言葉や情景の破片みたいなものを見つけ出し、その破片がどんな言葉の、どんな情景の一部なのかをよく目を凝らしたり、推測したりして「これだ!」というものを選び、つなぎ合わせて、エッセイのようなものを書いた。

私は、彼女との思い出や、私から見た彼女がどんな人だったか、も残しておきたかった。
なぜなら、私は彼女が表現するもの(インスタの写真や文章や、身につけるファッションなど)が大好きだったからだ。
彼女は友人であり、憧れの人、だったんだと思う。

こうして、エッセイの主要な部分は出来たものの、
果たしてどのように終わらせれば良いのか、が分からない。

当時は、「前向きな終わり方にしなければ」という気持ちが働いていたのだと思う。

どうしても終わりの言葉が見つからず、
記事を公開するには至らなかった。

そして、2年経ち、なぜこのエッセイを公開する事になったかと言うと、
その友人が亡くなった後、初めて夢に出てきたからだ。

夢の中で、彼女も私も学生時代に戻って、教室でおしゃべりをしていた。(大学の友人だったけど、高校生くらいに若返っていた)相変わらず、彼女は優しくて思慮深かった。一方、私はやっぱり幼くて、自分勝手だった。夢から覚めた後、そんな自分が情けなかった。

その夢にどんな意味があったのだろう。
私はふとこのエッセイを思い出した。

そして、「前向きな終わり方にする必要はないんだ」という気持ちになり、「友人の死を受け入れるのが難しい」という所でエッセイを結び、公開することにした。

それから、今日まで、毎日記事を書いている

私はこうして文章を書く、
この静かな1人の時間が好きなのだ。

これはnoteを始めて気づいた事だ。「気づいた」というより「思い出した」に近いかもしれない。

今までの生き方があまりに他人軸で「自分は何が好きか、どう生きたいのか」を自分ですら捉えにくくなってしまっていた。

自分の素直な「好き」という感覚を、もろくてすぐに揺らいでしまいそうなその感覚をつなぎ止める為に、私は文章を書いている。

そして、私の拙い文章を読んでくれる方、スキまでしてくれる方も、いつもありがとうございます。

「文章を書くのが好き」だけでなく「読んでもらえる、リアクションももらえる」のも、noteを続けている大きなモチベーションの1つだ。

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