【インターン記録.4】頭を抱える

わからなさ

切り取って、見せること、
切り取って、ことばにすること。

その暴力性に足がすくむ。

インターンを始めてもうすぐ2週間が経つ、かたちにすることってこんなに難しいのかと壁にぶつかる。

わからなさに向き合うことは時に楽しくて、時に苦しいような。

一度インターン先から関西に戻った。
関西にいる時、あまり空を見上げることはなかった。無性に、ふだんそこまで食べることのないチェーン店のドーナツが食べたくなって、1つ食べた。
得ようとしていなくても自分の目に飛び込んでくる情報がたくさんあった。
お店の名前とか、のぼりの文字とか、いろんなものをなぞって読んでいるだけで、歩きながら考えることがなくなった。それは今思うと楽だったような気もする。でも、気づかないうちにそういうものによって思考停止してる怖さも感じた。

浜通りを見た時に、まだ通ることしかできない区域や解体待ちの建物や更地となって雑草だけが生えているところが目にうつる。都会みたいに看板とかなぞる文字もあまりなくて、心の中で復唱できなくて、どうしても災害がこの土地をこうしたのか、、、とか考えて考えてはまっていってしまう。

そうすると言葉にするのが、どんどん怖くなって難しくなる。最初は、なんにでもなれる!と思っていた言葉を、なぜかおもしろがれなくなる。

現在取り組んでいること

アウトプットは考え中だけれど、
人々の記憶から、まちを身近に感じてもらえることはできないかと考えながら、プロジェクトを少しずつ練っている。

そのために何人かの町民の方へインタビューをさせていただいた。震災の話も震災以外の話も混じっていた。

インタビューをして、ゆたかさってなんだろうと考えた。
インタビューをさせていただいた方はみんなどこかゆたかで、惹きつけられるような人々だった。食事をいただいたり、日が落ちるまで語って長い時間費やしてくれたり、
あまり知らない土地で人に優しくされるってことがこんなにも嬉しいことなのかとも感じた。
だから、与えてくれた町民の方に対して、ニーズのようなものをうまく汲み取れていなくて、形にできない自分に焦りを感じたり、眉間に皺を寄せてみたりした。

今思うと、こういうのはゆたかさと程遠いのかも。答えを気づかないうちに求めていて、どこか違う気がする。ゆたかな人たちは返してほしいとももしかしたら思ってないのかもしれない。

インタビューさせていただいた
方々にいろんなものをいただく。

楽しい記憶

ある方は、楽しい記憶をほんとうに楽しそうに語った。みんなで笑って、「おかしいねぇ」と。

そんな時間はとても楽しかった。

楽しい記憶が、また自分たちの楽しい記憶となって、つながった。

記憶とか思い出は、正解とかねらいがなくて、自由でいいなと思う。
誤認されていて、事実とは異なっていても、思い出はだいたい心の中にしまってあるわけで、それを誰かに判定されるわけではない。
福祉の領域では、ナラティブアプローチ、と呼ばれるものが少し近くにあるような気がする。
問題を外在化させて、本来の物語を別の意味合いをつけた物語に変えることもできる。

ルールとかコンセプトがないからとりとめないものだけど、そこに入っていける余地みたいなものがある気がする。

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