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舞台『もしも命が描けたら』書き直し

(楽しい文章にしたくて書き直しましたが失敗しました)

出演は、田中圭、黒羽麻璃央、小島聖。作・演出は鈴木おさむ。

舞台の真ん中は丸い八百屋舞台(手前に向って傾斜がある舞台)が設置されていて、その上にはさまざまな大きさの岩がいくつも置いてある。月面のイメージだろうか。
後ろには大きな月。映像により三日月になったり満月になったり、あるいはミラーボールやクモの巣など月以外の映像も投射される。
丸い舞台の床には清川あさみによる映像が映し出される。
緑の植物だったり月だったり、抽象的な映像で作品の世界を造り出す。舞台美術としてとても良い。
3人しかいない舞台上に瞬間的に別の空間を作り、見ている側にわかりやすく演出する照明の力も素晴らしかった。
オープニングはYOASOBIによる楽曲がフルコーラスで流れる。
これはほぼあらすじだった。しかもラストまでわかってしまう。
芝居の途中で曲の一部が流れていて、セリフを聞きながらうっすら歌詞を拾うことができた。そういう使い方に絞った方がこの曲の効果があったのではないだろうか。

公演前に発表されていた役柄は、田中圭と黒羽は1役、小島は2役だった。
実際見てみると、田中は2役、黒羽は少なくとも2役、小島はおそらく3役だ。それらの役がはっきり分かれているわけではなく微妙につながっている。

田中圭演じる月人(げっと)は、ラストで三日月になって幼い月人を見守るように声をかけて終わる。
黒羽麻璃央演じる三日月に「君は僕で、僕は君だ」というセリフがあるので、これは割とすんなり受け入れられる。
黒羽は後半、虹子(小島聖)の彼氏・陽介を演じる。月人は、軽くてチャラい陽介とコミュニケーションをとるうちに「懐かしい」「君みたいだ」と表現する。「君」とはおそらく三日月のことだ。
陽介は虹子のもとを去るときにやはり「君」に向って虹子と月人のことを語る。この物語の中の「君」が三日月だとするなら、陽介はなぜ三日月に「君」と呼びかけ語り掛けるのか。それとも陽介の「陽」から考えると太陽を「君」と呼んでいるのだろうか。月人が陽介のことを「なんとなく君に似ている」といったのは、月の光が太陽の反射光だからだろうか。
虹子と月人の母、そして月人の亡くなった妻・星子は小島が演じるが、虹子と星子ににつながりはないように見えた。
虹子と母親は一見つながっているように見えた。虹子の息子・月人と、月人は年齢は違うが、自死の場面でループしているので、違う時間軸にいてもおかしくない。ただ、二人ともフルネームで自己紹介しているので実の親子だとしたらお互いに気づかないのは無理がある。月人の母親は元夫に対して「どこかで死んでいればいいのに」と時折つぶやいていた。虹子の元夫は、しつこく虹子の店に通っていた。月人は虹子に母親を投影していたが、おそらく母親ではない。

なぜ鈴木おさむは人物についてこのような描き方をしたのだろうか。
俳優三人に割り振られた役柄は、彼の中で曖昧なものではないだろう。答えがあることを匂わせながら曖昧にしている。
わかる人にはわかるという作り方はありだと思う。だが、わからない人に「わかる人はわかる」ことがわかるのはとてもストレスになる。
もしかしたらこの何重かの入れ子状態はさほど意味がないのかもしれない。だとしたら情報が多すぎて違和感を取り除く作業に力を入れてしまって、私は本質にはたどり着けなかった。

月人が幼いころから好きだった三日月と初めて話すことができたのは、彼が自ら命を絶とうとして失敗した時だ。
死ぬことに失敗した月人は三日月にこれまでの自分の人生を語る。
三日月役黒羽は前半はずっと彼の話を聞いている。
その佇まいはこの世のものではない雰囲気をうまく醸し出していた。時折静かに話す口調とよく通る声は、かすれ気味の月人の声と対象的だった。
月人は語り終わるともう一度自死を試みまた失敗する。そして、再び初めて三日月と話す場面に戻る。
三日月は、自分で死んだら死んだ妻・星子さん(小島聖・二役)に会えないから、その命を絵を描くことで他に分け与えるよう進言する。月人は星子さんに会いたくて様々な生き物の絵を描き命を与えた。
虹子に出会った月人は彼女のふるまうオムライスをおいしそうに食べる。ずっとそばで見守っている三日月は「そういえば自ら命を絶とうとした日から何も食べていなかったね」と優しくつぶやく。
正確な日数はわからないが、虹子さんに会うまでの描写と三日月の言葉でそこそこ長い間食事をしていなかった印象を持たせる。
月人は本当に自死に失敗したのだろうか。
月人は虹子を愛して、でも星子さんとは違う愛し方で、彼女に母親の面影を重ねていた。
虹子が愛していたのは陽介だ。彼の余命が幾ばくも無いと知り、月人は彼の絵を描いた。自らの命を大きく削った月人は指先がしびれて消えていき、体が暖かくなっていった。
そして三日月として幼い月人に話しかけた。絵を描けば面白いことが始まるよと。

ラストのセリフが私に最大のダメージを与えた。月人は最後に報われたような終わり方だったが、私にはそうは見えなかった。
星子さんに会うために絵を描き始めた月人だったが、虹子さんともずっと一緒にいたいと思っていたはずだ。だが彼は彼女の幸せのために自分を犠牲にする道を選ぶ。自己犠牲が幸せであるという考えがない私にとって、どうしても報われたように見えない。
月人は命が亡くなって体が消えていくと三日月になっていた。三日月は幼い月人がまた三日月になるまでの報われない日々を見守るのだ。月人の人生で三日月が言う面白いこととは何を指しているのだろう。絵を描けば命を描ける体験ができたことだろうか。

とてもハッピーエンドには見えないラストにハッピーエンドとしてのセリフが用意されていた。腹立たしい感情が沸き上がっていた。同時にそのセリフを発する田中圭の表情と声と口調がただただ良くて、私の感情がどちらに向いていいのかわからくなって混乱した。
腹立たしさは配信を見れば見るほど大きくなって、それを抑えきれなくて田中圭ファン友達を一人二人なくした気がする。

もう少し肯定的な感想を書くつもりで書き直したが失敗した。
私にとってわけがわからない作品で、演じきった俳優陣はただただすごい。
正直田中圭の芝居が一番つかみどころがなかった。それは鈴木の脚本にうまく乗っかっていたということかもしれない。多くの田中圭ファンが田中の演技を絶賛していたので、その波に乗れなかったのは本当に残念だった。
小島は存在感がパワフルで、見ていて気持ちがよかった。星子さんと虹子さんは性格的なものが全然違ったし年齢も違ったけど、それぞれが生き生きしていたし、どこかに存在していそうだった。
黒羽は配信時のトークによると、三日月に関してキャラクターととらえて落とし込んだようだ。それはおそらく鈴木が求めていたものだろう。ストーリーテラーとしての言葉は語尾が優しくてとても聞き心地がよかった。だが、わざわざ三日月という役に彼を配役したのは意図的としか考えられない。役名は発表されていなかったので、知らずに観劇した黒羽麻璃央ファンは椅子から転げ落ちやしなかっただろうか。

2021年9月5日(日)12時公演(兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)観劇。

東京公演:2021年8月12日~22日(東京芸術劇場プレイハウス)
兵庫公演:2021年9月3日~5日(兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)
愛知公演:2021年9月10日~12日(穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホール)

配信は9月17日〜23日(終了)
https://stagecrowd.live/s/live226/?ima=5459

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