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2 デミアン

さて、2冊目の紹介です。

今回はヘルマン・ヘッセという方の「デミアン」という本を紹介しますが、その紹介の前に軽くもう1冊紹介を。

昨年の話になりますが、今回紹介をする「デミアン」を読み始める前、初めてヘルマン・ヘッセの本、「車輪の下」を読みました。本のちょっとした内容や感想などはPodcastでしゃべっているので、もし興味があったら聞いてみて下さい。(Apple Podcastでも、Spotifyでも聞けます ※ #26.27)

「車輪の下」でのヘルマン・ヘッセの描写、感情の表現の仕方が凄く独特かつ鮮明に描かれていて、また彼の作品を読んでみたい、と手に取った本が今回紹介をする「デミアン」でした。

ヘルマン・ヘッセが生きた時代(1877-1962年)というのは、激動の時代。現代も色々なモノやコトが進化し、戦争も起きるという激動の時代であることは間違い無いですが、彼が生きた時代は今から振り返ると色々なものが確立されていく時代であり、それに伴う戦い(第一次世界大戦)が行われた時代でした。

その戦い、第一次世界大戦中に書かれた作品が今作「デミアン」。

「車輪の下」「デミアン」を読んで感じたのは、もちろん作品は素晴らしいけれど、ヘルマン・ヘッセの人生を作品と共に知るということの方が、より学びがあり、そして楽しめる方法であるということ。

なので、まだまだ学びや考察が浅はかだなと感じている段階での紹介となること、ご理解下さい!

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この作品の大きなテーマは、「善と悪と、自己」だと私は感じました。

まず冒頭にお伝えしておくと、作品の中ではキリスト教、そしてカインとアベルの話を元に書かれているので、キリスト教や神を崇めること(極端)にあまり馴染みがない私たち日本人にとっては、少し分かりにくい表現、内容かもしれません。(調べて下さい笑)

あらすじをサラッと説明すると、主人公シンクレールは、転校してきたデミアンに出会い、物事の見方は先生が教えてくれる見方だけでは無く、悪いと思っていたことも見方を変えると解釈が変わる、見える世界が変わると気付かされます。
(そうなんです、デミアンって実は主人公では無いんです)

それから、'ただ何でも受け入れる'ということをやめたシンクレールは、キリスト教がはっきりと示す善と悪、しかし新たな解釈を持つことによって生まれる善と悪との境界線の消滅、神でも悪魔でもある神の必要性など、自らが考え、自らの解を探し出していくという過程が作品の中で描かれていきます。

今回、この本を読んでいて特に共感が出来た部分は、「神と悪魔」、つまり「善と悪」の部分についての描写でした。

数年前までの自分は光を追い求め、光が多くの人に当たるように、自分がアスリートとして、一人の人間として何か行動を起こすことが善であると思い込んでいました。

しかし、自分の思い描いている光はあくまで自分が今まで見てきたもの、経験してきたものの中で作られた光であり、光は全ての人に同じように降り注ぐものではないこと。そして何より、光は陰があってこそ更に輝く、ということをこの数年で強く感じました。なので、光を信じ、光を多くの人に降り注ぎたいと考えていた自分がただの偽善者であり、そしてただの傲慢ではないかと疑い始め、そして確信に変わりました。

そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。
(P139より引用)

キリスト教という善悪をハッキリと分ける宗教を軸に書かれた(それに疑問を抱いた)この描写は、宗教に馴染みのない日本で育ち、目の前に霧が広がっていた私の視界を広げてくれるものでした。

この混沌とした世界は、善と悪が速いスピードで入れ替わったり、行く場所や自分の立つ場所が変わればコロコロ変わる世界。自分が知らない善があり、そして自分が知らない悪がある。これは陰陽で言い換えることも出来る。

人(特に日本人)は何かを常にジャッジしたくなるけれど、まず善悪の境界線、陰陽の境界線という自分自身の評価基準に気付くことが凄く重要であり、それが何通りもあるということを知る必要がある。(そんなこと分かってるわ!と思われると分かった上で、そう言う人ほど気付けていないことがほとんどだと思っている)

そしてもう一つ、私が共感した描写が「自己との対話と発見」。主人公シンクレールは、新しい世界の形、宗教の在り方に気付いて以降、自分の中に起こる変化をキリスト教、そして新たな思想、宗教に照らし合わせ、自己を形作っていく。

現代に生きることは、どうしても周りに目が行きがちになる。最近のnoteにも書いたけれど、私たちの目を向けさせるための工夫が、あらゆるところで施され操作されている。

それでも、自分自身と対話をすることが大事だと感じた自分に、更に説得力を加えてくれるような言葉が、たくさんこの本には書かれていました。

各人にとってのほんとうの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終わろうとして、予言者として、あるいは犯罪者として終わろうと—それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生き抜くことだった。
(P161より引用)

「すべての人間の生活は、自己自身への道である」なぜなら「どんな人もかつて完全に自分自身ではなかった」から。

私は自己自身でありながら完全な自己自身ではないことを、今、とても強く感じています。皆さんはどうですか?

自己自身への道を歩む人達へ最後に、解説の中に書かれていたスイスの大教育家ペスタロッツィの言葉をここに残して閉館しようと思います。

「なんじがあるところのいっさい、なんじが意志するところのいっさい、なんじがしなければならぬことのいっさいは、自分自身から発進する」
「おのれに帰れ」「自然に帰れ」
(P215より引用)

皆さんも是非読んでみて下さい。
※オススメの本や感想など、是非コメントでお待ちしております!

閉館のお時間です。
本日もご来館ありがとうございました。

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