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イェスさまいるって 〜イースターの朝に体験した不思議な出来事〜

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詩編・聖書日課・特祷

2024年4月14日(日)の詩編・聖書日課
 使徒言行録 4章5〜12節
 詩 編 98編1〜4節
 使徒書 ヨハネの手紙一 1章1節〜2章2節
 福音書 ルカによる福音書24章36〜48節
特祷(復活節第3主日)
神よ、誉れあるみ子は、パンを裂くみ姿のうちに、ご自身を弟子たちに示されました。み恵みによって、わたしたちの信仰の目が開かれ、贖いのすべてのみ業のうちに主を見いだすことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 1ヶ月半ぶりですね。今年度もまた皆さんとお会いできて嬉しいです。これまでは、偶数月の第4週目にお招きいただいておりましたけれども、今年度からは、同じく偶数月の、第4週目ではなく、“第2週目”に来させていただくことになりました。どうぞ皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。
 さて、イースター(イエス・キリストの復活日)から2週間が経ちましたけれども、イースター当日は、この教会はどんな雰囲気だったでしょうか。礼拝後には祝会が行われたとうかがっておりますので、きっと皆さん、楽しい一日を過ごされたのではないかと思います。
 僕は、イースター当日は、マタイ教会で過ごしました。その日は、お話の担当ではなく、祭壇奉仕を担当していました。聖餐式も心地よい雰囲気の中で行われて、礼拝後には祝会も行われて、非常に楽しい一日を過ごすことができました。ただですね……、実はその日、ちょっと“変わったこと”があったのです。変わったことと良いますか、“不思議な出来事”を、イースターの朝に体験したんですね。
 別に、超常現象とか怖い話とか、そういうオカルト系の話ではなくて、単純に「僕はそう感じた」というだけのことなのですけれども……、イースターの朝、聖餐式がまさに今、始まろうとしているその教会の中で、僕は、ある“不思議な体験”をしたのです。今日はそのお話をさせていただこうと思います。

レント・聖週のクライマックス

 事の発端は、イースターの数日前、いわゆる“聖なる3日間”から始まります。僕がいま拠点にしている名古屋聖マタイ教会では、聖なる3日間、つまり、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日のことですけれども、その3日間に、特別な礼拝が行われました。木曜日は、「洗足の礼拝」。金曜日は「受苦日礼拝」。そして土曜日は「復活のろうそくの祝福式」ですね。いずれの礼拝も、非常に厳かな雰囲気のなかで行われまして、まさしく、この3日間というのは、イエスの受難と死を想い起こす「レント」「聖週」のクライマックスなのだなぁ――ということを感じさせてくれる、そんな時間となりました。

 特に、僕が毎年、密かに楽しみにしている……というか、心待ちにしているのは、聖木曜日の「洗足の礼拝」が終わったあと……ですね。つまり、翌日の聖金曜日(受苦日)を迎えるにあたってのことですけれども、祭壇の飾りつけを全部片付けるという習慣が、聖公会を含めて、伝統的な教会にはあります。ろうそくとか、フロンタル(祭壇の布)とか、説教台と朗読台の布とかがありますが、そういったものがすべて片付けられるのですね。全部撤去してしまうのです。変に思われるかもしれませんけれども、僕はその瞬間が好きなのです。年に一度しか無いですからね、祭壇が裸になるのは。
 そうやって、祭壇の飾りつけを無くすことで、その“聖なる3日間”には、喜びが失われてしまった、つまり、“イエスが不在”であるということを、目で見て、直感的に感じられるようにしているわけです。それも非常に、大祭節のクライマックスを迎えているということを実感させてくれる貴重な時間でありました。

イースターが楽しみじゃなくなった

 そのようにして、聖木曜日から聖土曜日までの“聖なる3日間”のあいだ、今年も僕は、実に充実した、濃厚な時間を過ごすことができました。
 ただ……ですね。そんな日々を過ごす中で、不意に、自分でも良くわからないのですけれども、何と言うか、“おかしな感覚”に陥ることがあったのですね。その感覚に気づいたのは、木曜の「洗足の礼拝」が終わってからのことです。「洗足の礼拝」が終わったあと、僕は、後藤香織先生と一緒に、祭壇の飾りつけを片付けていました。先ほどお話ししたとおりですね。受苦日を迎えるにあたって、ろうそくとか布類などを撤去する作業をしていたのです。
シーンと静まり返った聖堂で、黙々と、その作業をしていたのですけれども、どうも、その時にですね、どういうわけか、「イースター」、数日後に迎えることになるイースターのことが、全然楽しみじゃなくなってしまったのです。楽しみじゃなくなった、と言うか、まったく興味が無くなってしまったのですね。
 こんな感覚に陥ったのは初めてでした。それまでは、「もういくつ寝ると、イースター♪」みたいな感じで、レントの間も、気持ちはイースターの方に向いていました。イエスの受難と死のことを覚えるのも確かに大切ではありますけど、でも、そうは言うても、実際にはそれは過去の話であって、イエスは復活されたわけですからね。なので、イースターのことを楽しみにしながら、レント(大祭節)の日々を過ごす――というので別に構わないと思うのです。しかし、どうも僕は今回、今年の大斎節に関しては、すごく、「イエスの十字架」という出来事に対して思いを向けてしまっていたようなのですね。「イエスの復活」のほうではなく、「イエスの受難と死」のほうに、より意識が向いていたようなのです。そして、その影響で、聖土曜日の翌日、その向こう側……ですね、つまりイースターへと気持ちが越えていかなかったわけなのです。

没入感

 皆さん、「没入感」っていう言葉、ご存知でしょうか。最近、よく使われるようになってきた言葉です。英語で“immersive(イマーシヴ)”と言ったりもするそうですけれども、たとえば、映画とかゲームとか、漫画、小説、あるいは、体験型のテーマパークなどですね、そういう、現実の世界とは違う世界観にどっぷりと浸る(その世界に没頭して夢中になる)ことを、最近は、「没入」という言葉で表現するのが流行りなんですね。そして、そのように思わず「没入」してしまうほど、リアリティを感じさせてくれることを、「没入感がある」とか、「没入感が高い」というように表現したりするのです。

 僕はどうやら、今年のレント・ホーリーウィークの期間において、まさに、イエス・キリストの受難と死という出来事に、いわば「没入」していたようです。イエスは、どのような覚悟をもってエルサレムへと向かい、どうやって、彼は敵対者たちに捕らえられ、尋問を受け、傷つけられ、そして十字架上で息を引き取っていったのか……。そのことをじっくりと考えつつ、その上、この聖公会の教会で行われるリタージカルな礼拝(つまり、伝統と形式を重んじる礼拝)の雰囲気も相まって、自分でも気づかぬうちに、僕はどっぷりと“聖なる3日間”の世界観に“没入”させられていたみたいなのですね。なので、イースターへの関心が薄らいでしまっていたのだろうと思います。

イースター当日の不思議な体験

 そのような、暗い気持ちを引きずりながら、先日、3月31日にイースターを迎えました。その日は、聖堂の入口から入堂していくプロセッションだったので、聖堂の外で、聖餐式が始まるのを待っていたのですけれども、あと数分で10時30分になろうかというときに、ふと、聖堂の中を覗いてみたのです。そしたら……、その瞬間、冒頭でお話した“不思議な出来事”が起こったのです。
 あの日は、良く晴れていましたよね。イースターを祝福するかのようないい天気でしたけれども、そんな温かな日差しが聖堂の中を照らしてくれていて、その聖堂の会衆席に、聖餐式の開始を待つ会衆の皆さんの姿が見えたのです。イースターと言っても、そんなにたくさんの方々が集まられたわけではない、いたって普通の、見慣れた光景でした。いつも通りの、マタイ教会の日曜日の聖堂です。でも、その光景を見たときに、僕は不思議と、それまで引きずっていた……、僕の心のなかに渦巻いていたモヤモヤした気持ちが無くなっていることに気がついたのですね。いつの間にか、とっても晴れやかな気持ちになっていたのです。まさに、「Happy Easter(イースターおめでとう)」という言葉が自然と口から出てくるような、そんな爽やかな気分でした。

イェスさまいるってほんとかな

 あの日の、あの時の何が、僕の心を変えてくれたのか。いま振り返っても、はっきりとしたことは分からないでいます。でもきっと、おそらくですけれども、「いつも通りの日常」というものが、僕に安心感を与えてくれたのだろうと思います。
 前回、1ヶ月半前の2月25日に、こちらの教会に来させていただいたときに、「今度のお話では、イエスの復活についてお話してくださいね」というリクエストを、皆さんのほうからいただいておりました。ちゃんと覚えています。なので、そういうつもりで、今日のお話を準備しようと思っていました。でも、今日はこんな感じのお話になってしまったので、「イエスの復活とは何なのか」とか、「神学的には、イエスの復活はどう理解すべきなのか」みたいな、そういう小難しい話は止めようと思いました。
 その代わり、今日は一つ、この礼拝のために“賛美歌”をご用意してまいりました。皆さん、お手元のプリントをご覧いただきたいのですけれども、これは、『こどもさんびか改訂版』という賛美歌集に収録されている、「イェスさまいるってほんとかな」という賛美歌です。子どもたちのために作られた賛美歌ですね。原曲は、“How is Jesus Present?”というタイトルが付けられています。カトリック教会のシスターであるCecily Sheehy(セシリー・シーヒィ)という人が作った20世紀の賛美歌です。
 歌詞を読んでみますね。もしよろしければ、皆さんも一緒に声に出して読んでみてください。

16番「イェスさまいるってほんとかな」
 1. イェスさまいるって ほんとかな、 今でもいるって言うけれど。
   イェスさまいるって ほんとかな、 見たことないけれど。
 2. イェスさまいるって ほんとだよ。 パンを分けあい、 見つめあい、
   うれしいことも かなしみも 分けあう わの中に。
 3. イェスさまいるって ほんとだね。 みことば聞いて パンをさく
   みんなの中に イェスさまは いつも いてくださる。

(日本基督教団讃美歌委員会編,『こどもさんびか改訂版』,4版,2007より)

 ……とてもシンプルな歌詞ですね。復活のイエス・キリスト、その姿は見えないけれども、みんなが集まる輪の中に、つまり、うれしいことも、かなしいことも、共に分かち合うその輪の中に、イエスはいつもおられるのだ、ということをうたっています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)という、有名なイエスの言葉を思い起こさせる、そのような歌詞となっています。

おわりに

 イースター当日、僕がマタイ教会の聖堂で感じたのは、礼拝に集まる人たちの真ん中に立っておられた、復活のイエス・キリストの存在だったのかもしれません。いつもいつでも、僕らが集まるところに、イエスが共にいるということ。それこそが、「イエスの復活(よみがえり)」という出来事における、最も大きな恵みなのだと、あらためて教えられた気がした、そんな今年のイースターでありました。
 今日はご無理を言って、オーガニスト(奏楽者)のかたに、この曲を伴奏していただくことにしました。ありがとうございます。それでは最後になりますけれども、ご一緒にこの賛美歌をうたって、お話を終わりたいと思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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