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世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!

説教音声データ

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詩編・特祷・聖書日課

2022年10月16日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:創世記32章4~9節、23~31節
 詩編:121編
 使徒書:テモテへの手紙二3章14節~4章5節
 福音書:ルカによる福音書18章1~8節a
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 プロテスタント教会で行われる礼拝説教には「説教題」というのが付けられることが多くあります。その日語られる説教のタイトルですね。僕は普段から、説教を担当するときに「説教題」を考えるのを一つの楽しみにしておりまして、特に、あんまり“教会の説教っぽくない”タイトルを付けるのが好きなんですね。実は、このルカ教会でお話させていただく説教にも「説教題」を付けています。今日も考えてきたんですけれども、今回はこのようなタイトルにしました。『世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!』
 これは、お笑い芸人の「ぐっさん」こと山口智充さんが、ミュージシャンとして出した曲のタイトルなんですね。多分、世間的には全然有名な曲じゃないと思います。僕も数日前に初めて知りました。しかもシングル曲とかじゃなくてアルバムに収録されている内の一曲なので、ホンマに誰も知らないと思います。
 今日の説教を準備するにあたって、なんか音楽からインスピレーションを受けたいなぁと思いながら色々と調べている中で、偶然出会った一曲です。『世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!』……良いタイトルですよね。歌詞もなかなか、ぐっさんの力強い声と相まって、グッと心に響いてくるような内容になっています。楽曲情報は下記のリンクへ。

裕福な男とやもめの女性

 さて、それでは聖書のお話に入ってまいりたいと思いますけれども、この説教題のとおり、今日の聖書の箇所は「世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!」と思わせてくれるような、そんな内容になっているんですね。
 本日の聖書日課として選ばれているテクストの内の「創世記32章」と「ルカ福音書18章」。この二つの箇所には、対照的な二人の人物が登場しています。すなわち、「裕福な男」と「夫に先立たれた『やもめ』の女性」です。
 「裕福な男」というのは、創世記の方に出てくる「ヤコブ」という人物のこと。ご存知、イスラエル民族の父祖とされている人物ですね。この時、ヤコブには2人の妻と2人の側女、そして大勢の子どもたちがいました。大所帯の主、ビッグダディですね。また、奴隷や召使いも大勢雇っていましたし、たくさんの家畜も飼育していました。そういうわけで彼は、非常に豊かであり、経済的には全く何も窮するようなことがない状況であったわけです。
 一方、ルカ福音書に登場する一人の女性。彼女は、夫に先立たれたあと、他の男性と再婚することなく独身生活を過ごしていました。「やもめ(寡婦)」であるという以外、彼女の家庭事情については一切何も述べられていません。経済状況も不明です。夫を亡くした女性たちの中にも、金銭面では全く苦労していないという人たちもいただろうと思います。ですが、やはりそのような女性は当然のことながら、ごく僅かだったはずです。多くの場合、家計を支えていた夫を失った女性は、生活費を稼いでくれる子どもがいなければ、再婚するか、親族からの援助や社会的な支援を受けなければ生きていけませんでした。彼女の置かれている状況について、取り立てて何も書かれていないことから推測するに、おそらくこの女性は、他の多くの寡婦として生きる女性たちと同様に、非常に貧しい生活をしていたのだろうと考えられるわけです。
 このように、大所帯の主であるヤコブと、イエスのたとえ話の中に出てくる「やもめ」の女性。一見すると全く対照的と思われる二人であるわけですが、実は彼女たちには、一つ共通していることがありました。それは、二人とも「先の見えない恐怖に直面していた」ということです。

ヤコブ、決着の時に向けて

 創世記に登場するヤコブ。彼は“ある人物”のことを恐れていました。エサウという名前の実の兄です。彼らは元々、両親と共に家族4人で生活していました。しかしある時、長男エサウの特権である「相続」と「祝福」の権利を、弟のヤコブが横取りするという事件が起こるんですね。歳を取って目が見えなくなった父イサクを欺き、ヤコブは自らを兄エサウであると偽って、密かに、お父さんと「相続」と「祝福」の契りを交わしたわけです。すると、ヤコブに出し抜かれたエサウは激怒します。そして「(お父さんが死んだら)必ず弟のヤコブを殺してやる」と言って、彼は弟ヤコブに恨みを抱くようになったんですね(27:41)。
 兄の殺意を事前に察知したヤコブは、すぐに家を離れ、親戚のもとに避難します。そこで彼は、二人の妻と二人の側女と出会い、そして彼女たちとの間に子どもをもうけました。その後、ヤコブは長くその親戚のもとで生活していたんですが、20年ほどが経ったある日、神の思し召しがありまして(31:13)、彼らは急いで生まれ故郷に帰ることにしたんですね。
 しかし、彼には(文字通り)避けては通れぬ問題が残されていました。兄エサウとの軋轢(あつれき)です。彼は事前に、エサウのもとに使者を遣わしました。相手の様子をうかがうためですね。けれども、ヤコブのところに戻ってきた使者は、彼を余計に不安にさせる知らせを持ち帰りました。「ご報告いたします。兄上は、400人を引き連れてこちらに向かっています」(32:7)。……400人!? とんでもない人数ですね。ヤコブは大規模な戦闘が起こることを予想しました。しかし、それを未然に防ぐために、彼はエサウへの贈り物として多くの家畜を先に送り出しました。エサウが贈り物を受け取ってくれてその後に彼に会えば、快く迎えてくれるだろうと考えたわけです。また、もし仮にエサウが攻撃してきても半分は逃げられるようにするために、家族と家畜を二組に分けることにしました。古代のリスクマネジメントですね。
 このように、かつて自分の犯した悪事のゆえに憎悪と殺意を抱かせてしまった実の兄との再会に向けて、ヤコブはできる限りの備えをしました。それでも、ヤコブの不安は和らいだわけではありませんでした。その夜、家族や家畜たちを皆、先に出発させたあと、彼は一人その場に残ります。間もなく訪れようとしている決着の時にむけて、彼は精神統一でもするかのように静寂に身を委ねていたわけです。果たして彼の運命やいかに。また後ほど戻ってきたいと思います。

イエスの憤り

 さて、ルカ福音書に出てくる「やもめ」の女性。彼女もまた、大きな不安と闘っていました。彼女の場合、裕福なヤコブとは違って、お金も無いし、頼れる家族もいない。その日一日を生きるのに精一杯という状況だったと思われます。
 ルカ福音書という文書は、他の3つの福音書と比べて、“女性”に関する記述が多い福音書として知られています。特に「やもめ」の女性についての記述は、4つの福音書のうち「マルコ」と「ルカ」にしか書かれていないんですが、マルコが2箇所であるのに比べて、ルカの場合は6箇所で「やもめ」の女性に触れているんですね。そのことからも、いかにルカ福音書が“女性”の問題に関心があったかがうかがえます。
 ルカ福音書の中に記されている「やもめ」の女性に関するエピソードのうち、特に有名なのは、やはり「やもめの献金」(21:1-4)の話ではないでしょうか。神殿に設置されている献金箱に、金持ちたちがたくさんのお金を入れていく中、一人の貧しいやもめの女性が、持っているお金を全て、生活費を全部入れたという話ですね。その様子を目撃したイエスは、そのやもめの女性の行動に関して触れているわけですけれども、この時イエスは、彼女のことを称賛したわけではないんですね。また逆に、「金持ちたちはもっと献金すべきだ」と言ったわけでもない。そもそも、この直後にイエスはエルサレム神殿の崩壊を予告しているわけですので(21:5-6)、人々がささげている献金自体、あまり良くは思っていなかったのだろうと思われます。
 金持ちたちが有り余る中からささげている献金は、本来はこの女性たちのような貧しい人々の生活にこそ還元されるべきものではないのか。それなのに、神殿や宗教指導者の連中は、弱者救済に取り組むどころか、私腹を肥やすことばかりに関心を向けている。奴らは、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしているだけだ(20:47)。
 金持ちどもについて言えば、奴らもまた、貧しい人々から不法に搾取し、経済格差の拡大を助長し続けている。「持っている人はさらに与えられて豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(マタ25:29)そんな世の中を作り上げているのはこいつらだ。
 ……わずか小銭2枚を献金としてささげたやもめの女性を見て、イエスはこのように憤りを覚えたのではないかと想像します。
 社会的弱者のための支援に関しては、ユダヤ教では特に、孤児(みなしご)や寡婦(やもめ)の保護というのが重要視されていました。事故や病気、戦争によって夫を亡くした女性、また、親を失った子どもを助けることは、神の民であるイスラエルが守るべき大切な使命だったわけです(申24:17以下。なおその中には「寄留者」も含まれる)。
 しかし、ひとたび社会情勢が不安定になると、その戒めはあっという間にないがしろにされてしまう。旧約の預言者たちが告発しているように、途端に人々は利己主義に陥り、弱者救済の役割を果たさなくなってしまう。そういう時にこそ、貧しい者たちも含めて全員で生き残っていこうとする精神が必要なのだと、神がせっかく「律法」という形で教えてくださったにもかかわらずです。

雨垂れ石を穿つ

 今回の箇所に登場している、いわゆる「不正な裁判官」は、まさに典型的な利己主義者(エゴイスト)でありました。新約聖書のユダヤ教社会では、律法の専門家である(おなじみ)「律法学者」と呼ばれる人たちが裁判官を務めたんですね。なので、この裁判官は、実は「律法学者」、つまりユダヤ教の指導者なんです。それにもかかわらず、この裁判官はこんなことを口にしています。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。」(4節)宗教指導者にあるまじき態度ですね。おそらく彼は、依頼人に法外な報酬を要求したり、都合の良いように律法を解釈したり、依頼人に有利になるような判決を出したりしていたのでしょう。どうしようもない男ですね。
 そんな男のもとに、一人の女性が訪ねてきました。“金さえ払えば誰でも助けてやる。”彼はそういう男である。しかし、やってきたのは「やもめ」の女性。見るからに貧乏そうな姿をしています。
 「“金の無いヤツ”を相手にするほど暇じゃねぇんだ、帰った帰った。」彼は、女性の話すら碌に聞くことなく門前払いにしました。次の日、彼女はまた裁判官のもとにやってきて、そして追い返されました。ですが、次の日もまた次の日も、何度断られても、彼女は裁判官のところに足を運びました。彼女は来るたびに、このように懇願するのです。「相手を裁いて、わたしを守ってください。」(3節)
 すると、その女性が余りにもしつこいので、さすがの悪徳裁判官もどうしようかと悩み始めました。「こんなに頻繁に訪ねて来られちゃ仕事にならないし、そのたびに追い返し続けていたら、ひょっとすると私の評判にも傷がつくかもしれない。」その後も、彼女は裁判官のもとに来て、「裁判をしてください。法律で守ってください」と頼み続けました。来る日も来る日も、何度断られようとも、彼女はめげることなく頼み続けたのです。すると遂に、悪徳裁判官は重い腰を上げて、その口を開きました。「……ふぅ~。分かりました。裁判、やりましょう。」
 日本語で「雨垂れ石を穿つ(うがつ)」ということわざがありますが、まさにこの箇所では、「たとえ小さな力でも、粘り強く積み重ねていけば、成果を得られる」という教訓が語られていると言えます。
 また、「貧すれば鈍する」という言葉もあるように、残念ながら我々人間は、生活が苦しくなると、頭の回転、精神の働きまで鈍くなって、悪循環に陥ってしまうことが多い。つい、ネガティヴな考えに支配されたり、諦めが心を埋め尽くしたりしてしまうわけです。そのような中で、この箇所に登場するやもめの女性の奮闘は、我々に勇気を与えてくれるものだと感じます。彼女の行動は、とても単純なものなんですね。「助けてください!」と頼み続けただけ。しかし、何度も何度も、繰り返し「助けてください!」と頼み込んだ結果、遂に“山が動いた”。身寄りのない一人の無力な女性が、金満悪徳裁判官を諦めさせ、法的保護を受ける権利を獲得したわけです。
 「世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!」イエスはこのたとえ話を語ることで、人々に「諦めない心」を持たせようとした。また、それと同時に、悪が蔓延り正しい人が報われず、希望を見出しづらい世の中だけれども、それでも、助けを求めれば、案外まわりの人たちは助けてくれるもんだよ。世の中そんなに捨てたもんじゃないぜ!……そんなことを彼らに伝えたかったのではないかと思うんですね。

良い意味で予想を裏切られたヤコブ

 創世記のヤコブの話に戻ります。兄エサウとの20年ぶりの再会を明日に控える中、彼は一人、怯えていました。20年前と変わらず、兄は弟の自分に対して殺意を抱き続けているかもしれない。彼は怖くて仕方がなかった。けれども、彼は前に進もうとしていた。未来を切り拓くために、兄との和解を果たすために、彼は恐怖と闘っていたわけです。この箇所には「神との格闘」の場面が描かれているわけですけれども、これはもしかすると、この時のヤコブの心境をそのまま映し出したものと言えるかもしれません。
 今回の創世記32章は、神との闘いにヤコブが勝利したところで終わっています。続く33章で、いよいよヤコブとエサウの再会の場面が描かれるわけですけれども、兄のエサウは、かつて殺意を抱くほどに恨んでいた弟ヤコブと20年ぶりに再開して、どうしたか。彼はなんと、ヤコブを見るや否や、走ってきて弟のことを抱きしめ、首を抱えて口づけしたんですね(33:4)。ヤコブの想像していた、恐ろしい形相をしてこちらに向かってくる兄の姿はそこには無く、かつて別れも告げず突然家を飛び出していって以来、20年間安否の分からなかった弟の無事を泣きながら喜んでくれる兄がいました。ヤコブの想像は、良い意味で裏切られたわけです。
 時に、我々の人生においては、想像とは全く違う出来事が起こることがあります。もちろん、嫌なこと、不幸なこともたくさん起こります。だから、我々はつい「この世には救いは無い」などと極端な考えを抱いてしまいそうになるわけですが、実は、悪いことばかりが起こるわけでもない。思いがけず、幸運が飛び込んでくることもあるんですよね。
 特に、人との関係においては、相手の心が読めないために、ネガティヴな妄想をしてしまって、相手に対して過度な不安や恐怖を抱いてしまうこともあります。でも、意外とそれは「気のせい」「思い過ごし」だったりするんですね。つまり、自分にとって良い結果が待っているか悪い結果が待っているかは、蓋を開けるまで分からない、可能性は常にfifty-fifty(五分五分)なんですね。

おわりに

 そう考えますと、我々人間は、どちらかというと“ネガティヴ”な想像をしてしまいがちであるがゆえに、その“蓋”を開けないことの方が多いのかもしれません。期待を裏切られるのが怖いから。でも、我々はもっと、自分の周りの人たちのことを信頼しても良いのではないかと思います。「世の中そんなに捨てたもんじゃない」というのは、今回の「やもめと裁判官」の話を通じて、イエスが我々に教えてくれていることです。もっとこの社会を、そして人々を信頼することができれば、我々の生活はより豊かなものになるのかもしれません。
 神は我々人間に、「言葉」と「心」を与えてくださった。言葉と心があるからこそ、人間は相手を思いやり、慮ることができるのであり、そしてたとえ全く異なる者同士であっても、両者の間に平穏な関係を築いていくことができるわけです。その一人一人のつながりの中で神が働いてくださる。「イスラエルを守る方は 眠ることもまどろむこともない」、「主はあなたを守り、近くにいまして その影はあなたを覆う」(詩編121:4-5)と詩編の作者がうたっているように、一人一人のすぐ傍で、神はその人のことを見守ってくださっている。そのような神に信頼しつつ、そして、我々と出会う“誰か”のことを信頼する。その大切さを、今日の聖書の言葉から教えられたような気がします。
 ……それではまた来月。

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