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【エッセイ】 菅原克己雑感3

 1953年のビキニ事件に衝撃を受けた現代詩人会が、全国の詩人に呼びかけ『死の灰詩集』を刊行したのが1954年。これについて鮎川信夫が1955年5月に「『死の灰詩集』の本質」という批判的な論評をし、多くの詩人達を巻き込んだ論争が始まる。菅原克己も『現代詩』の編集部に依頼され、鮎川に対する批判を試みる。
 菅原克己はその頃のことをこう振り返っている(『詩の鉛筆手帳』以下同)。
「戦後になって、社会的な昂奮がぼくをつつみ、『死の灰』といえば『死の灰』を、久保山愛吉氏の死といえば、その事件を、ローゼン・バーグ、日鋼ストなど、即座に書いていった一時期があり、むかしのひそやかな抒情詩人は消え、概念的な昂奮で詩の口火を切るようなものがあった。ぼくはその頃初めて他流試合の場所に出、他人に文句をつけ、叩かれたりした。」
 論争の内容自体はここでは触れない。ここで触れておきたいことは、この論争を試みた菅原克己が、自らの非論理性(お調子者ぶり=本人の表現)を強く後悔し、これ以降の詩作にも大きな影響をあたえたということだ。
 この1953年から55年の3年間について、栗原澪子は「『日の底』ノート」にこう書いている。
「この、事多かった三年間に、そして菅原さんの詩人としての仕事が、一線に出て活発に始められたこの三年間に、菅原さんが書き、発表した作品の多くは、十一冊ある詩集のどれにも収録されない、ということになるのである。」
 菅原克己は自らが周囲の熱狂に流されて、疑問を持たずに次から次へと書き散らしたことを反省し、自らをあらためて見つめ直すことの重要性を考えていた。
 「ブラザ—軒」が発表されたのは1956年、『生活と文学』8月号だった。亡くなった父や妹と再会するが気づいてもらえない。懐かしいけれど戻ることのない日々。自分の原点を探そうとしてたどる静かな足取りが感じられる詩だ。

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