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馬場は生きろ、猪木は死ね 追悼ジャイアント馬場1999.02.01    矢部明洋

  私は今、ジャイアント馬場の死に接し、モーレツに後悔している。昨年、サンデー毎日のK谷デスクから「今度、馬場にインタビューするんだけど来ない」と声をかけてもらったのに、畏れ多くも断ってしまったのである。今にして痛感するのは、猪木さんには引退ではなくリングで死んでほしかったが、馬場さんにはいつまでも生きていてほしかった。プロレスファンの多くがそんな感情を抱いてるのではないかと思う。
 もう一つの悔恨は、生後5カ月の我が子を馬場さんに抱っこしてもらいたかったということ。「次、全日本が博多に来たら会場で頼んでみよう」などと、丁度、亡くなった31日に家で話していたばかりだった。「大仁田には抱っこして欲しくないな」「今の若貴もいやだな」「猪木もちょっとな」などと軽口をたたいてのに……。馬場さん亡き後の我が子を抱っこして記念写真を撮りたいレスラー・ランキングは (1)小橋健太 (2)前田日明……うーん、後は思いつかない。
 馬場さんの死は私の勤める新聞社でも少々の波紋を引き起こした。社会面トップで扱ったゲラ刷りを見た我が職場のボスは「何で馬場がアタマなんだ」と言い出した。「プロレスなんておちゃらけでやっとるのだろう」と。力道山の死後、程なくプロレス報道から撤退した一般紙の中で、この意見は少なからず存在する。
 しかし馬場さんは、いくら新聞がプロレスを運動面で報じてこなかったとはいえ、その死を社会面で小ぶりに扱うことなど不可能なほどに、日本中の老若男女に知られた存在だった。知られるといっても昨今の有名人のようにテレビを始めとするマスメディアを通じての認知度だけではないのである。年間130興行、日本全国を津々浦々まわり、リングで試合を続けてきたキャリアは重い。老境のファイトはしばしば揶揄の対象になりはした。しかし、多くのファンは、60歳を超えてもリングで小橋の容赦無い水平チョップを受けきる老雄を直接目の当たりにしてるが故、敬意を抱かずにいられなかった。昨年、全日本が初めて東京ドームで大会を開いた時、最大の歓声を浴びたのは三冠王者の三沢でも、メーンで勝利を飾った川田でもなく、馬場さんだった事がそれを物語っていよう。
 これまでの実績にしても、日本人で初めてNWAチャンプに輝いた点など不滅の功績だ。極論を許してもらえば、わたし的には戦後、アメリカに勝った、あるいはアメリカ人を脱帽させた日本人は馬場さんとクロサワくらいしかいないのではないかと思う。日本固有の伝統芸能の分野ではなく、映画同様、プロレスというフェアな分野で、個人としてアメリカにシャッポを脱がせたという点は余人に真似できぬ偉業だった。
 新世紀の到来を前に、また一人、20世紀の巨人が舞台を去っていったのだと、私は今、感慨に浸っている。
 武道館の試合で、息子のような年齢の小橋の水平チョップを、あばらの浮いた胸板で受けている姿が妙に脳裏に残っている。強烈なダメージにもかかわらず、子供の成長を喜んでいるように見えた。「あー、馬場は幸福そうだな」と目頭が熱くなったのを覚えている。昨年末の博多スターレーンで見せてもらったファイトが最後だった。
 心からご冥福をお祈りします。

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