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勉強家の死 追悼・桂枝雀1999.04.21矢部明洋

 落語家は60歳を超えてから、どう枯れてゆくかが勝負だと思っている。枝雀こそ、これからの枯れっぷり次第で志ん生、文楽、円生、米朝と続く戦後の大名人の系譜に連なり得る人だった。59歳での自殺は残念極まりない。
 横山ノックが議員バッジをつけてからというもの関西の高座で「タコ」といえば枝雀だった。人気が頂点にさしかかった頃の独演会での客の受けぶりは凄まじいものがあった。ツルツルのタコ入道頭で舞台にいるだけで客は笑ってしまうのである。枝雀が「いるはにほへと」と意味のない発声をするだけでも客席の爆笑を喚起するような集団ヒステリーのような有り様だった。客を笑わせるという一点だけなら80年代以降の20世紀は、枝雀が日本一の落語家だった気がする。
 古典落語を漫画チックなまでに視覚的にデフォルメした芸風が万人受けした要因なのだが、その一方で噺の枕は実にアカデミックだった。米朝一門が愛用している京都府立文化芸術会館での独演会を見た時には、何と地球の成り立ちから人類の進化までを分かりやすく面白くまとめて語るのである。勉強してるなー、と唸らされたのは80年代半ばのことだった。
 枕なんて並みの落語家なら雑談ですます。談志なら得意の時事放談か。およそ芸人になろうなんて人種は、枕くらい才気でこなしてしまう。枝雀には例え枕であろうとおろそかにできない真面目さ、落語道の求道者みたいな趣きがあった。悪く言えば神経質で小心だったのかもしれない。
 弟子の雀々がよくテレビで、自分が入門した当時の枝雀をネタにして「いつも難しそうな本を読み、難しそうな顔をしてた」と話していた。関西芸人らしく「ぼく(のチャランポランなアホな性格)が師匠の性格を明るくしたから今の成功があるんです」とのオチも付いていた。
 確かに、枝雀がまだ小米を名乗っていた頃を知る我が家の年寄りたちは「こいつは若い頃、全然おもろなかったんや」とよく話していた。芸人として一皮むけた転機があったのだろう。
 97年の正月だったと思う。京都の独演会で枝雀が「申し訳ありません」と言って噺を途中で投げ出してしまったのを見たことがある。
 その日は底冷えのする京都でも、特に寒風の強い夜だった。客の心も体も寒さで強張っていたのか、いつもの独演会ほどには客のノリも良くはなかったのだろう(それでも東京の寄席で接する独演会程度には客も笑っていた)。噺に詰まったわけでもなく、突然演れない、と言い出したのである。枝雀ほどの芸人だから許されるワガママだろうが異例のことである。「勉強を重ね高座に臨んでいるのに、どうしてきょうの客は笑わない!」という癇癪が破裂したのか。今、思えば、鬱の兆しだったのかもしれない。
 浪速の人気芸人といえば春団児や寛美から横山やすしまで破天荒なイメージがつきまとうものだが、この人は「爆笑王」と称されながらも勉強家の印象が強い異色の存在だった。その一点で渥美清に似てなくもない。渥美清はマスコミを遠ざけ私生活を隠すことで勉強家のイメージが流通するのを防いでいた。一方、枝雀は英語落語に取り組んだり、勉強家の資質を芸に活かそう、芸風に転化させようとした節もみられる。
 渥美清は勉強を隠し、寅次郎のイメージだけを守ろうと割り切ることで、虚像として万人に愛され惜しまれ亡くなった。枝雀はきっと割り切れなかったのだろう。勉強熱心さから、英語や役者、いろんな分野に手を出して収拾がつかなくなって鬱に落ち込んでしまったように思える。
 テレビドラマでのミスキャスト的な起用の多かったのが残念だ。ほんとは、小ずるく嫌らしい悪役が似合う資質だったように思う。トークやバラエティなど気の乗らないテレビ出演の時、ほんとうに瞬間的だが神経質で険かいな素顔が覗くことがあった。あの顔を大胆に拡大した小悪党芝居を見てみたかった。
 60歳を過ぎてからどう艶やかに枯れてゆくのか、東西を見渡しても枝雀が一番楽しみな落語家だった……人生の楽しみを一つ失ってしまった気分である。
 合掌。

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